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江戸の土木技術の粋「玉川上水」~立川あたり

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当ブログ“東京支局”のS支局長から届いたのは、江戸の街をうるおした「玉川上水」の写真です(右写真)。太宰治が入水自殺を遂げた上水として有名ですが、右写真は立川市の西武拝島線「武蔵砂川駅」付近なので、場所が違います。

玉川上水について調べてみました。
以前「毎度おなじみ流浪の番組」とタモリさんがきり出す「タモリ倶楽部」でも取り上げていましたが、江戸期の土木技術の粋を集めて造られた上水です。
玉川上水は江戸の六上水の一つで、かつて江戸市中へ飲料水を供給していました。
本線の全長は約43km、といいますから鹿児島市中心部から指宿市までとほぼ同距離。長いですね。羽村取水堰で多摩川から取水し武蔵野台地を流れ、現在の四谷四丁目交差点付近にあった「四谷大木戸」の「水番所」(水番屋)を経て、江戸市中へと流水を分配していたそうです。
現在でも一部区間で東京都水道局の現役の水道施設として活用されています。
木樋や石樋を用いた地下水道も江戸市中で一部あるものの、羽村から大木戸まではすべて露天掘り。
「ウィキペディア」によると、羽村から四谷大木戸までの本線は武蔵野台地の尾根筋を選んで引かれているほか、大規模な分水路もそれぞれ武蔵野台地内の河川の分水嶺を選んで引かれている、そうです。
着工は1653年(承応元年)4月。幕府により江戸の飲料水不足を解消するため多摩川からの上水開削が計画されたものです。工事資金として6000両を幕府が用意、本線開通は同年11月15日といいますから約半年で完成しています。
上水は自然の高低差を利用して通水する設計です。ところが、羽村から四谷までの標高差はわずかに約100mだったことから工事は困難を極めたそうです。当初日野から取水する計画だったものの開削途中の試験通水で“水喰土”(みずくらいど= 浸透性の高い関東ローム層)に当たりルートを変更、続いて福生を取水口としたところ岩盤がありこれも失敗します。
総奉行・松平信綱は家臣の川越藩士・安松金右衛門を設計技師に起用。安松は3案の中から新たにルートを絞り込み工事を再開し、翌年6月から江戸市中への通水も始まります。
ただ、難工事に伴い工事費がかさんだため幕府からの6000両が途中で底をつき、工事を請け負った玉川兄弟は家を売って費用にあてたそうです。
玉川上水は江戸の貴重な飲料水の水源でしたので、洗い物、漁、水浴び、ごみの投棄などはご法度とされ厳しく取り締まられていました。水路の両側幅3間は“保護地帯”とし樹木の伐採、下草刈りも禁じられていたといいます。

こうして江戸の名残をいまに伝えています。
by gayacoffee | 2010-11-07 18:02 | 支局だより | Comments(0)

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