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坂之上西・羽子田にあった堀?と現地からの眺め

鹿児島市の南部、坂之上西・羽子田は、慈眼寺公園南の丘陵地、坂之上の台地の北の隅に当たります。
史跡「寿安の松」(波平坂之上家屋敷跡。始祖橋口安張ゆかりの松の碑=カテゴリ「谷山散策」2008年4月7日付け参照)があって、愛刀家Tさんが、付近に「幅広い堀のようなくぼみが何十mか続いていたと、地元の人に聞いた」と教えてくださってから、山城ファンのひとりとして、この一帯に興味を持っていました。どの程度の深さ、幅かまでは確認していませんが、堀状のくぼみにも、刀鍛冶の際に出た鉄滓(カナクソ)がたくさん捨てられていたそうですから、江戸時代以前のものであることは確かなようです。耕作のじゃまになると埋められ、現在では畑や宅地になっています。
羽子田に山城、あるいは関連施設があった可能性は、地名からも推測されます。慈眼寺団地への坂道の途中のT字交差点脇にある墓地名が「射場墓地」です。なんとも匂う場所です。
舌状台地の突端に当たる点からも、城館施設の可能性は高いのですが、堀らしき溝のあった場所から台地端までは200m以上もあり、広すぎるのが気になります。隣接する古い集落の路地がT字で交差し、高い土塁状の土手が盛ってあったことから、その関連とも考えられます。
もし堀であったとして、どちらから攻めてくる敵を想定していたか、が問題でしょう。

はたして山城とまでいかずとも、見張り台、番小屋ぐらい設けるべき場所だったのか、戦乱期に身を置いたつもりで、現地を訪れてみました。鉄塔の建つ見晴らしのきく場所から、平地を眺めました(下写真)。
平地には住宅が密集していますが、30年前まで一面の田んぼでした。敵兵が攻めてきてもよく見えたでしょう。のろしを上げるとたちまち、味方に連絡が届いたことでしょう。
平地と坂之上の丘陵との差は50mほどあります。守るに適した地です。
かつての谷山氏の本拠地「谷山本城」(カテゴリ「谷山散策」2008年8月7日参照)と、いまは削られて跡かたもない和田名「玉林城」(伊佐智佐神社のある場所。同2009年1月11日付け参照)、それに続く坂之上東前の「宇宿城」が、ここ羽子田から一望できることが確認できました。いずれもシラス台地を巧みに使った山城です。鎌倉末期から南北朝期には南朝方の勢力下にありました。

残念ながら、羽子田一帯も宅地化が進み、土塁など遺構が残っている雰囲気ではありません。
ただ、Tさんが以前、羽子田に隣接する坂之上西・山角(やまずん)の斜面に2人ほど並んで歩けるぐらいの道がぐるっとめぐって、かつて坂之上に上る主要道路であったと推測される「アンダ坂(阿弥陀坂)」(別名・七曲坂=カテゴリ「谷山散策」2008年12月13日付け参照)につながるとも語っておられた。削平地の可能性もあり、丹念に探れば古(いにしえ)の軌跡があるかもしれません。

◆羽子田の丘陵端から北を望む。左奥に少し望める小山が「谷山本城」
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◆同じく、北東を見る。谷山の中心街、その向こうに鴨池の県庁舎などが望める
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◆同じく、東側を望む。右手奥が坂之上東前の丘陵で「宇宿城」の推定地であり、その左側に堀底道を隔てて、かつて「玉林城」が同じ標高で続いていた。宅地化で山そのものが消えた
坂之上西・羽子田にあった堀?と現地からの眺め_e0130185_2058188.jpg

by gayacoffee | 2012-05-19 22:47 | 谷山散策 | Comments(0)

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