人気ブログランキング | 話題のタグを見る

山形屋が維新150周年記念し「幕末薩摩御城下概観図」ハンカチ

山形屋が維新150周年記念し「幕末薩摩御城下概観図」ハンカチ_e0130185_14562922.jpg

ハンカチ全体
山形屋が維新150周年記念し「幕末薩摩御城下概観図」ハンカチ_e0130185_2073795.jpg

一部を拡大

鹿児島のトップブランドといえば、地元百貨店「山形屋」。「包装紙だけもらえませんか」と山形屋の売り場を訪れた人がいたとか、いないとか。もらった贈答品を山形屋の包装紙で包み直してグレードアップさせてほかの人へ贈り物にしようとした逸話です。
それほどのブランド力です。

老舗山形屋が「明治維新150周年」を前に、1860年前後の鹿児島市街地(城下図)の古地図を元にデザインした「幕末薩摩御城下概観図ハンカチ」(上写真)をこのほど制作、販売しました。税込840円。
幕末の城下絵図に、御一門家・一所持ち屋敷、維新の偉人生誕地などが記入され、さらに「鹿児島駅」など現代の施設も示され、「山形屋呉服店」の名前もあります。砲台がおかれた台場が幕末らしいですね。ずーっと眺めていたいハンカチです。

山形屋の創業は1751年(宝暦元年)。創業者は近江商人の流れをくむ、現在の山形県庄内地方の北前船商人で、薩摩藩主の許可を得て鹿児島城下唯一の呉服商を開業したのが始まりとされます。

宝暦といえば、藩主は7代(24代当主)島津重年、江戸中期の殿様です。
さらに宝暦という年号は薩摩にとっては記憶に深く刻まれ、いまに伝わります。

ここで、ハンカチの話から大きく川筋が変わります。ご了承ください。
薩摩N
幕命(御手伝普請)により木曽川の治水工事を命じられ、総奉行に家老平田靱負、副奉行伊集院十蔵、工事に従事した薩摩藩士は追加派遣も含め総勢947人に上りました。
宝暦4年2月27日鍬入れ式、4月に早くも永吉惣兵衛、音方貞淵が自害します。両人管理の現場で3度にわたり堤が破壊され、その指揮を執っていたのが幕府の役人であることが分かり、抗議の自害であったとされます。以後、完成する翌年5月まで61人の藩士が自害。ただ、平田総奉行は幕府への抗議と疑われることを恐れ自害であったことを伏せます。
工事にたずさわった薩摩藩士に対する幕府側の嫌がらせは、重労働にもかかわらず食事も「一汁一菜」と規制、さらに蓑や草履までも安価で売らぬよう地元農民に指示したとされます。赤痢も発生、藩士の157人が病に倒れ32人が病死します。難航の末、宝暦5年5月22日工事完了し、同24日総奉行平田靱負はその旨を書面にして国許に報告、その翌日25日早朝、美濃大牧の本小屋で、多大な犠牲と費用の増大の責任をとって自らも割腹自殺します。
辞世の句「住み馴れし里も今更名残にて立ちぞわずらう美濃の大牧
平田靱負の命日、毎年5月25日に鹿児島市平田公園で薩摩義士頌徳慰霊祭が行われています。
薩摩藩が治水工事に最終的に要した費用は約40万両(現在に換算し300億円以上と推定)。そのうち大坂の商人から22万298両を借入。
藩主重年も生来の病弱に心労が重なり、翌6月に27歳で亡くなります。

遺徳をしのび、明治33年の木曽川水系、分流工事完成時に「宝暦治水碑」が千本松原南端に建てられました。また、昭和13年、平田靱負ら85人の薩摩藩士殉職者を祭る「治水神社」が岐阜県海津市海津町油島に建立されています。
鹿児島と岐阜の交流はいまも盛んです。
鹿児島県と岐阜県は、これが縁で県教育委員会同士の交流研修として、お互いの県に小中高校教員を転任させています。平成19年から岐阜県では他県への教職員派遣を止めましたが、鹿児島県のみ継続しています。岐阜県海津市と鹿児島県霧島市は友好提携を結んでいます。
平成5年8月6日の鹿児島豪雨災害時には、岐阜県から土木専門職員が派遣され復旧支援に当たりました。

なお、近代土木技術を用いた本格的な治水工事は、明治初期、お雇い外国人、ヨハニス・デ・レーケの指導による木曽三川分流工事によって初めて実施された、とのことです。
(ウィキペディア参照)
※「★薩摩N」が記された文は、「薩摩ナショナリズム」系つぶやきという印です。
Commented by 盲目の剣士 at 2013-03-14 08:32 x
「平田ゆきえ」の話は、昨年偶然に電子書籍で読みました。
すでにタイトルと著者名を忘れています。
Commented by gayacoffee at 2013-03-14 11:25
盲目の剣士さん、ありがとうございます。
そういう私も、小学校の授業であった郷土の歴史で表面だけ聞いて、長く顧みることなく、最近になって杉本苑子さん著「孤愁の岸」(講談社文庫)を読み、涙しました。「御手伝普請」の幕命はすべて命ぜられた家中の手出しですから、大名弱体化政策です。8代吉宗の養女・竹姫を正室に迎えるなど島津家中は将軍家との結びつきを強めながら、代が変わる途端に無理難題を押し付けられたようで、結局江戸300年は、将軍家という、昭和期のいうなら「国体」を護持するためだけの年月ですね。ひどい話です。その間に日本人は、海に囲まれながら大海を忘れ、ちまちまとなったのでしょう。
話がそれました。
by gayacoffee | 2013-03-13 01:52 | 鹿児島のご案内 | Comments(2)

鹿児島発! 生豆を水洗いする自家焙煎コーヒー店の日記


by gayacoffee