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1カ月ぶり? 夕方、本降りの雨。「両棒」をおふたりから頂きました

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「処暑」。24節気のひとつ、立秋から15日目ごろで、暑さが収まってくるころ、の意味があるそうですが、きょうも鹿児島市は猛暑日でした。

当店のある鹿児島市南部、坂之上はいま激しい雨に見舞われています。午後5時ごろからぽつぽつと雨粒が落ちてきました。この夏のパターンで、昼すぎから雲が盛んにわいて蒸し暑さのピークを迎え、さあここでひと雨、夕立かと思いきや、いつもすかされました。が、きょうは違いました。午後6時を回って、さらに雨脚が強まり本降りへ(上写真=午後6時10分ごろ、当店前)。約1カ月ぶりではないでしょうか、この雨は。
当ブログを遡ると、7月16日以降、坂之上では雨が降っていません。
激しい雨となり雷も鳴っています。
聞くところ、鹿児島市では渇水対策も検討されているとか。この雨でどのくらい潤うかは不明ながら、まとまった雨にほっとしつつ、しかし、関東から東北、北海道の大雨による被害を思うと、素直に雨に喜べません。

開店前に3種類のコーヒー豆を煎りました。開店間もなくからお客様が続き、「ホンジュラス・サンアンドレスSHGスペシャル」「ライト・マンデリン」の2種類が早々に品切れとなりました。ありがたいやら、その後のお客様に申し訳ないやら。
●グアテマラSHB(深煎り)
●マンデリンG1(深煎り)
●ペルー・モンテアルトJASオーガニック=有機栽培豆=インカの香り(深煎り)

追記】=午後7時
雷鳴が地面を揺すります。雨はまだ降っています。地元民放・南日本放送(MBC)のホームページで、レーダーによる雨雲の動きをみると、霧島あたりから北風で下りてきた雨雲のかたまりが鹿児島市を北から南へ抜けている途中で、雨雲は川辺・知覧・頴娃へと向っています。雨雲のかたまりの中心は、午後6時55分現在、まさに谷山付近にあります。大きな積乱雲なのでしょう。

大雨の影響でJR指宿枕崎線は五位野-指宿で運転見合わせとなっているそうです。

追記】=午後8時5分
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雨は止んだようです。

お昼にご来店の常連のお客様から、「どうぞ、食べてください。いま寄ってきたんですよ」と、いただいたのが慈眼寺公園そうめん流し(運営・谷山観光協会)で販売している「両棒餅」でした(左写真)。鹿児島では「じゃんぼもち」と呼びます。餅は省いて「じゃんぼ」とも。砂糖としょう油を煮込んで片栗粉でとろみをつけたタレが甘くて、いかにも鹿児島の味。おいしくいただきました。
と、昼過ぎに見えられたMさんからも「両棒餅」の差し入れがありました。ありがとうございます。こちらは吉野磯「平田屋」の餅(左下写真)。かなり有名な店で、磯海水浴場のすぐ道路向かいにあります。
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「両棒」は磯名物、と思う人が多いそうですが、実は谷山名物の餅です(と、谷山の人間は言っている)。
江戸時代、谷山の中心街、南にある松崎に「両棒」の店があり、「五文餅(ごんめもち)」と呼ばれ、谷山の名物だった、と慈眼寺公園そうめん流しで売られている「両棒餅」のパッケージに貼られた解説文にあります。そもそもの起源もいろいろ説があるそうですが、慈眼寺のパッケージ文には、「南北朝時代、後醍醐天皇の皇子、懐良親王が征西将軍として谷山に入った際、南朝の豪族・谷山五郎隆信が親王の心を慰めようと餅を作り2本の串を差しお出ししたところ、名前を問われ、谷山五郎はとっさに『両棒』と申し上げた」説が書かれています。これは「春駒」の名の由来と似ていますから、“命名神話”のひとパターンなのでしょう。
2本の串=棒で差すから「両棒」とは実にシンプルな命名です。「両」を「ジャン」と呼ぶあたり、中国や琉球との貿易を想像させますね。“海洋国”“海の民族”であったころの鹿児島人は、さぞ進取の気鋭あり、冒険心にとんでいたことでしょう。大海原を越えていく、海人。倭寇も薩摩が多かった、と郷土史の本で読みました。
「両棒」は2本の棒で差してあるから、二本差=侍だとも言います。平田屋のそれは昔ながらの竹串です。慈眼寺公園そうめん流しの「両棒」は爪楊枝です。
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※左写真=磯「平田屋」の「両棒餅」包み紙には島津家の家紋、丸に十文字と刀の鍔がデザインされている。なぜ鍔なのか? 二本差=侍からの連想か?

小・中学校時代の同級生で、よく一緒に遊んだSくんの実家が、慈眼寺公園前で「両棒餅屋」を営んでいました。私の記憶では公園前に2軒並んで「両棒餅屋」があったような…。いずれも、いまはもうありません。
甘いタレのこの餅を食べるたびに、Sくんを思い出します。懐かしい味です。ただSくんの店で「両棒餅」を食べた覚えはありません。

追記】=午後8時47分
もうすぐ閉店の時刻です。あすは定休日、今夜は当店の1週間の締めです。今週もありがとうございました。
さきほど元同僚Sくんから電話がありましたが、ちょうど接客中で、「ごめんなさい」と電話を切りました。また会いましょう、Sくん。

台風10号が太平洋上で迷走しています。ほぼ停滞しつつも、なんと南西へ進んでいます。通常と逆ですね。南へ下ることによって発達しているそうで、きょう午後に暴風圏ができた、とネットのニュースにありました。南大東島はじめ、奄美、沖縄の海のしけに警戒されます。
Commented by 六条判官 at 2016-08-23 20:43 x
 昼間はどうもでした。鎌倉幕府のことなのですが、黒田俊雄氏の「権門体制論」と佐藤進一氏の「東国国家論」の二つの学説があるようです。最初の権門体制論は天皇家、摂関家、寺社、武家が相互補完で成り立っているという社会システムという説です。一方、東国国家論は律令制から変化した王朝国家とは別に、
東国にあった将軍と御家人の主従制によるもう一つの国家であるという説です。当時に人間ではないからどんな感覚だったのかはタイムマシンがない限りわかりませんが、3代執権の北条泰時が御成敗式目で、荘園や公領について国司じゃないくせに守護は国務に首を突っ込んではいけないことを記しています。守護
の仕事はあくまで警察的な役割で、年貢の横領はもってのほかです。御成敗式目は決して西日本に荘園を多く持つ公家や寺社に対し、権利を侵すものではないと説明のために作られた側面もあります。なので幕府設立当初はあくまでローカル政権だったと思います。まあ、なぜ朝廷は東国政権設立を許したのかは実際は
わかりませんが、結果論とはいえ公家と武家は一定の距離を置いたほうが結果として共存できたからじゃないかと思います。よく神教や仏教も両立して存在したことから、権門体制論のように相互補完だったと思います。(もちろん見る角度によっては東国国家論の性格に近かったこともあります)
Commented by gayacoffee at 2016-08-23 21:01
六条判官さん、ありがとうございます。
増上寺の話はまた教えてください。
きょうは鎌倉幕府の成立についての説を紹介していただき、とても有意義でした。
平安期も後半になると、天皇家とその周辺の公家・有力寺院による権勢も緩みが出て、軍事専門家の武家が台頭してくるまでは分かるとして、なぜ朝廷が頼朝に政治を委ねることを認めたかが私は不思議でした。
教科書では「いいくに作ろう鎌倉幕府」で1192年、鎌倉幕府成立と一行。摂関体制から武家政権への移行は大転換だと思うのですが、分からずにいました。2説をご紹介いただき、いろいろ調べる手がかりとさせていただきます。
平清盛の存在もかなり重要ですよね。形骸化していたとはいえ、律令制の国司に代わる、武家側の全国支配ネットワーク化はまず警察機能であったとは聞いていましたが、その後、政治・経済面でも実効支配していったのでしょうかね。また後鳥羽上皇の「承久の乱」もまた興味深い事件です。
ありがとうございました。
Commented by Ex-Tannyaman at 2016-08-24 12:06 x
八色書店より2~3軒分だけ南へ歩くと慈眼寺へ向かう道がありましたね。その道と川辺街道が交差する所に古川呉服店がありました。この店の屋号(?)は「ぢゃんぼや」だったと思います。何年前のことであったか、義弟が運転する車で通り過ぎたとき、呉服店は既になく、その裏側に古川麻雀店の看板が見えました。本屋といい、呉服屋といい、車が通過するだけの地点に位置する商店は辛いよな、と感じたのでした。

> 丸に十文字と刀の鍔がデザインされている。なぜ鍔なのか?

丸に十文字だけでは商標法に抵触するかも。
Commented by gayacoffee at 2016-08-25 13:05
Ex-Tannyamanさん、ありがとうございます。
慈眼寺そうめん流しで売っている両棒餅の解説文にある、松崎通りの「ぢゃんぼや」とは正にそこのことなのかもしれませんね。
かつての商店街は人が歩く時代で成り立っていましたから、車社会では通過点となってしまいがちです。駐車場を用意するにしても、地代が高いでしょうし、それだけの売り上げが見込める店は、谷山の商店街沿いにあって、第1、第2と駐車場を用意しておられますね。人気店とそうでない店の格差がはっきりしますね。駐車場といえば、当店も大きな課題のひとつです。

丸に十の字は、さすがに鹿児島で家紋にしているのは島津家とその一門、分家だけでしょう。旧主家・領主家の家紋ゆえ、むしろ憚ったのかもしれません。
例えば、葵の紋を使用することが商標法に抵触するか? です。明治以降に造られた刀の拵え(柄・縁頭・目貫・鞘・鍔など)では、堂々と葵の紋が入れられたりしています。模造刀でも名家の紋入りの拵えがネットで売られています。真田の六文銭などいま人気でしょう。
Commented by Ex-Tannyaman at 2016-08-25 16:29 x
「ノーベル賞の田中主任」の島津製作所が横書きした社名の前に「丸に十の字」のマークで登録していますね。同様に、島津興業も横書きした社名の前に付けた状態で商標登録していましたが、権利満了しています。

三つ葉葵の場合、徳川家一門、松平家などで類似の図案になっているので、登録申請は難しいのではないでしょうか。
Commented by gayacoffee at 2016-08-26 23:21
Ex-Tannyamanさん、ありがとうございます。
家紋+なにかしらのデザインが加わって商標登録となるわけですね。
徳川家、また一門の松平家などの葵の紋が、それぞれ微妙にあるいは大胆に異なる家紋としたのと同様に、島津家も本家はこれ、加治木家はこれ、花岡家はこれ、といった風に、それぞれ異なっています。それを当時の武家、あるいは出入りの商人らは覚えなければならなかったでしょう。これも大変なことですね。
by gayacoffee | 2016-08-23 18:49 | 焙煎人日記 | Comments(6)

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by gayacoffee