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早朝5時に激しい雨で目覚め二度寝。ばたばたと焙煎3種

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早朝の大雨の痕跡。店先の鉢植えで

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おおむね静かな木曜の午後です。
屋外に出ると、雨粒がぽつりぽつりと顔に落ちてきます。小雨とまで言えないほどの、ほぼ曇天の鹿児島市(右写真=午後1時ごろ、当店前の市道からJR指宿枕崎線・坂之上駅方向)です。

常連のKさんがさきほどご来店。ちとワケあり、やっかいな仕事を片付ける中で、依頼者から感謝されたことで、自分のこれからの生きる方向性を見付けた、とうれしそうに語ってくださいました。「お金もそれは大事だけど、自分が関わることで人に喜ばれること自体が幸せなんじゃないかと思う」と。

開店前のコーヒー焙煎は3種類でした。もう2種類を予定していたのですが、二度寝で寝坊。
●グアテマラSHB(深煎り)
●コロンビア・スプレモ(深煎り)
●ブラジルNo.2(深煎り)
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早朝、激しい雨音で目が覚めました。時計を見ると午前5時ちょっと前です。ベランダに洗濯物を干したままにしていたため室内に取り込んだりしているうちにすっかり脳が働き始め、布団に入って本を読みました。きのう購入した「古代史が解き明かす 日本人の正体」(実業之日本社じっぴコンパクト新書=左写真)です。著者は、奇抜な分析で数多い著作のある在野の古代史研究家・関裕二さん。物部氏、蘇我氏、中臣氏などのルーツなどを斬新な視点で世に問いかけ続けている著者が、まさに日本人の根幹ともいえる、「天皇」「神道」といったテーマを真正面から取り組んでいます。世界に類をみない「天皇」とはいかに誕生し、歴史の中で変化し、いまの私たちにとってどんな存在なのか…。在野ゆえか、マスコミから取り上げられることのない著者ながら興味深い分析で、私は何冊か著書を読んできました。この本は、古代ばかりか現代までを視野に入れて、現代に生きる古代日本の心なども取り上げています。明治政府が「天皇」をいかに政治利用し捻じ曲げ、日本の歴史・伝統すらも歪曲したことも指摘、なるほど、なるほどと読んでいるうちに、私はまた眠りに落ちてしまいました。
はっと気付くと午前8時を回っていました。あわてて店へ出て、まず生豆の水洗い、焙煎機の釜を温めている間にシャワーを浴び、焙煎作業へ。
定休日明けの開店準備には普段より時間がかかります。焙煎する豆種をとりあえず急ぎの分だけに留めました。相変わらずばたばたと開店。

追記】=午後8時18分
きょうの鹿児島市は最高気温23℃どまりだったようです(アメダス)。湿気防止で、冷房を入れていましたが、設定を手前のエアコン24℃、奥のスペース26℃にしていました。外気の方が涼しかったとは…。
夕方ひと雨。そのほかは曇りでした。

きのう定休日は、曇りのち晴れでした。本降りの雨だと原付スクーターで回れません。梅雨どきはこれがやっかいです。
午前中、よく通う鍼灸院「三裕堂」へ。まず脈診で私の体調を診てくださいます。「胃がちょっと熱っぽいですね」とのこと。どういうことか尋ねると、原因はなんとも言えないが、風邪症状的な熱がある、と。久しぶりの通院ゆえ、疲れがたまっているのでしょうか。続いて、なんとハーブ入りの足湯。ほぐれると上半身の熱が下がってくると説明してくださいます。ハーブは院長宅の庭で摘み取り配合されているとのこと。
いよいよマッサージ。ハーブ油でゆったりと血行を促し、そして私が大好きな吸い玉の登場です。ガラス製の小振りのタコ壺のようなガラス容器の中に火を差し入れ、ツボ、患部に吸い付かせます。吸い玉が冷えることで中の空気が縮み肌に吸い付きます。張り付くレベルではなく、ぐぐっと強く引っ張ります。その吸引力でよどんだ悪い血を集め、血行を促す仕組みのようです。疲労などのたまった場所は濃い紫色になり、数日とれません。最後は鍼。そのころになると半分うとうとしています。たっぷり80分コース。
鍼灸院を出て、金融機関、スーパー、酒店(ケーキ用ラム酒購入)をひと回り。さらに鹿児島国際大学内の紀伊国屋書店(大学ブックセンター)で取り置きをしておいてもらっている雑誌類を買い、自宅で戻りました。
食事を済まし、ベランダで飼っているメダカにエサをやったり洗濯をしていると早くも午後3時。急に眠気が襲ってきました。午前の鍼灸が効いたのでしょうか。たまらず布団へ。目が覚めると午後6時を回っていました。近ごろは昼寝もできないほど自然に眠れずにいますが、久々に薬なしで熟睡しました。
店の壁を拭くのを今週は省き、床掃除のみ。その後、生豆のハンドピックを済ませると午後11時で、軽いストレッチをしてまた布団へ。夜は精神安定剤と入眠剤を服用。
以上、記録でした。
Commented by 前立腺隊じっちゃマン at 2017-06-23 10:54 x
遠賀川流域の物部や国東の蘇我を吟味していたのは関氏だったでしょうか。宇佐八幡と箱崎宮との元宮とされる大分(だいぶ)八幡や神護石について考えていたころ、立ち読みしたような・・・武内宿禰はタケシ・ウチノスクネで、美内宿禰はウマシ・云々とか。現地遺物や関係者後裔からの聞き取りと妙に符合するなぁと関心したのは、古田氏か関氏くらいですので。

「倭」に「やまと」とルビを振って悦に入る人種には申し訳ないけど、漢族に「倭」と蔑まれた遠祖の苦難を知るべきでしょう。揚子江流域での滅亡以来、ほとほと負け続けて日本に来着した遠祖にとって、内部分裂を阻止して、組織のリソースを最大限に活用することは、喫緊の課題だったでしょう。寄り合いを円滑に運営する体質は、古代からの、それこそDNAだと思わされます。
海苔のことを思い出しました。海苔の生食は800年前からとか。唯一海苔の分解をするバクテリアのDNAを取り込み、海苔を栄養摂取できるのは日本人だけとか。統治時代に海苔を食べ始めた朝鮮人には、まだ無理だといいます。戦国期をたった30年で終わらせる知恵は、海苔食よりよほど古い日本人のDNAのしからしむるところではないか、と妄想します。

キミの寄り合いのまとめ役オオキミの言動は、盟主たるシャーマンの意図を超えることはなかった、と思っています。従三位であったか神祇官の下に天皇を配した官僚組織が、支那や朝鮮と思想を異にしていると思えます。とはいえ、斎王の行う霊界浄化まで担っている現代の天皇は、役割が多すぎると感じます。気の毒でなりません。

昭和天皇は、A級戦犯の靖国合祀を拒否しました。マッカーサーに言った「このたびの戦の責任は、朕と朕が信頼せる重臣にあり。よって向後、いかなる責任も、日本国民に負わすことの無きよう」という言葉が、裕仁の意図のすべてだと思います。武蔵野稜の尊き方は、ちゃんと仕事を果たされました。なのに徳川のバカ息子ときたら・・・
Commented by gayacoffee at 2017-06-23 20:26
前立腺隊じっちゃマンさん、ありがとうございます。
昭和天皇、そして今上天皇と、お立場・責務を懸命に努めておられると敬愛しております。ことに今上陛下の昨夏のお言葉には深く感じ入りました。重い言葉でした。

祭政一致はいつごろからなのでしょうか。関氏もそうですが、「日本書紀」は当時の政権内争い、系統の正統性、背後にある不比等の影響がてんこ盛りとし、「古事記」は「紀」の100年後に創作されたとの説もあります。偽書までいかなくても、後代に作られた、と。まあ、そもそもが、わが家は古より云々、と盛り付けるのはままあることで、それは権力者のよくやることです。
神話の中で気になるのが神と大王との関係です。
三輪山の伝説、伊勢神宮の流転(遷宮)、出雲大社(延喜式では杵築大社)など、大王と神様の間には緊張感があり、斎王は女性ですし、明治以降の神道とは違いを感じます。そもそも神は鬼でもあり、畏れ多い存在ゆえ祭るというものではないか。それゆえ、神道に教義は必要なく、ただただ自然・神を畏怖すると。そこに多神教の良さを私は感じます。
修験もその流れを汲んでいるんじゃないでしょうか。
先の前立腺隊じっちゃマンさんのコメントでいかに明治政府が修験を恐れたか、修験の持つ精神的かつ現実的な力があったからと想像します。そういえば、歴代天皇、上皇、公家さんも熊野詣でをやっています。熊野は興味深いです。
ついでながら、熊野を真ん中に、伊勢と反対側にある紀州・日前國懸神宮にも興味を持っています。
ちなみに「倭」の意味がどうも分かりません。日本人(という概念はまだなかったかもしれないが)が自らを「ワ」(当時の発音はいまと当然異なるでしょう)と称し、中国の当時王朝が漢字を当てたのか。蔑称なのか、それとも中華以外を蔑視した中国の王朝にしては「にんべん」を使っている分、日本には特別の思いがあったのか。そういう人もいます。「邪馬台国」も「邪」なんてひどい字ですからね。東海を尊ぶ神仙思想=蓬莱山があったそうですから、そんなことも関係あるのでしょうか。もっとも、中国の史書は皇帝のための記録ですから、それもまた正統性を主張するばかりではありますが。
話がとっ散らかってしまいました。
Commented by 前立腺隊じっちゃマン at 2017-06-24 00:25 x
殷の祭器を引くまでもなく、伝説の夏王朝遺跡か、と色めきたったカボト(すみません漢字は忘れました)遺跡の土器さえも、祭祀を連想させる意匠を持ちました。余剰生産を根拠とする権力の発生から、いやむしろ原始の暮らしの中でも、祈りと実行とは、一致して実現するはず、と信じられていたように思います。海浜の食料が尽きると祈りを深め、命がけであこや貝に挑み、いよいよとなれば移転して、新たな地のカミ(精霊)に居住と狩猟を請う、という精神は継承されたように感じています。
誓約(うけい)という古語があります。代償を明示した上でカミに願い事をする、というような意味であったかと。お賽銭やお百度は、その名残りなのだそうです。当家近所の溜池。江戸期に山伏が、涸れた池の真ん中で雨乞いの祈祷中、念願の雨が降り出したけれど、祈祷が終わらなかった故に溺死した記録があります。山むこう(日本号の保利太兵衛サンの領地です)では、困難な河川工事に人柱が立ちました。つい最近まで、祈り、暮らし、政治は混然としていたのではないでしょうか。溜池・祭祀遺跡から検出する素焼きの皿や人形が、案外江戸期のものである場合があります。
ここまで考えたところで、友人から電話。動力オタクの二人で船舶や電車を論じ、先尾翼の新型機を設計し、バイクのチューニングを終えるまで2時間かかりました。しまいに、やいグライダー、悔しかったら自力で離陸してみろ、などと怪気炎。

かかる経緯で集中力を欠いています。残り次項にて。
Commented by 前立腺隊じっちゃマン at 2017-06-24 02:04 x
石上神宮・宇佐神宮・宗像大社の山頂から、岩座(石の椅子)を検出しています。宗像は現在の中腹にある高宮ではなく山頂。高祖神崇拝以前、ツングース系の祭祀痕跡なのだそうです。脇神となっている場合がほとんどのフル神。当て字のバリエーションを詳細に知りませんが、フルとかブルとか。ツングース語の生命・水を指す神を奉じた人々も、天孫族に取り込まれています。モンゴルのゴル、アッチラ大王の遠征によって波及したモルダウのモル(現地語ブルダバのブル)も類語です。
百済など前王朝の痕跡を完全に破砕したのに、韓人は日本に来てから、他部族を取り込み活用するすべを発揮しています。主神を高祖神にすり替えつつも、神社に複数の神が祭られている所以です。

伊勢は、白鳥御陵を遺した九州勢力が、中京を衝いたときの橋頭堡だと考えています。理由は、そんな気がするから。私だったら、そんな兵站を手段としますので。
イセ・イサのイは強意の接頭語、セ・サは重要拠点とか聖地を意味する古代朝鮮語だそうです。ウサも同義でしょうか。スガ・スカ・スグ・シキは集落を意味するそうですが、セ・サの派生語なのかなと思っています。

飛びますが、王という言葉には注意が必要です。皇帝あるいは天皇に任命された地方行政官以上の意味はありません。ポリティックな理由で朝鮮王とへりくだっていたとおり。斎王は祭祀の担当官で大王は酋長のリーダーということになります。天皇が天皇と尊大に名乗れたことも、支那のポリティクな事情、遠交近攻策のおかげなので、ほんとはせせら笑っていたのかもしれませんが。

「倭」は、漢族が揚子江流域の国々を指して用いた言葉。お察しのとおりニンベンに変えたところで矮の字と通底するセコい・取るに足らないといった蔑称には違いありません。始皇帝と武帝とによってすべて滅んだ倭の一派は、海岸線を北東進、遼東半島を回りこみ韓半島へ。さらに日本へと移動していますし、他地域への分散も少なくありません。よって「倭」は、時代によって場所と編成が異なります。魏志東夷伝倭人条の記述だけが日本人、と誤解するほうが、ほぼ真実でしょう。
Commented by gayacoffee at 2017-06-24 21:01
前立腺隊じっちゃマンさん、ありがとうございます。
ご指摘の通り、夏も殷(商)も祭政一致ですね。原始、自然の営みがいかに人間が左右されたかを物語ります。天気予報が100年ものデータ蓄積とスーパーコンピュータで相当に精度が高くなっている時代にあっても、自然の猛威は毎年のように社会に損害を与えます。古代、いや江戸期までなら、まして、と想像します。
キリスト教の万事人間中心的科学を取り入れた明治以降、神も仏も鬼も伝説も非科学的とされ、日本的なものを捨てました。明治中ごろに国家神道化の中で古よりその地、なにかの出来事を畏怖し鎮めてきたあまたの神=よりしろの地を、国家神道上「神社」と認めず大量にリストラしました。右の人たちは、まずここを糾弾すべきなのに? と不思議です。これを「神社合祀」とかいいますが、西洋かぶれのイモ上がりの爵位など持った成り上がりどもが、天を畏れず行ったまさに事件です。このひとつだけでも明治という時代から、昭和前期の、歴史上初の他国による占領化という屈辱への道を下っていったのだろうと思います。

「坂之上」の古い集落にあった大明神(でめじんさあ)もこれを機に衰退、かつて広かった境内を元氏子らが分けて私有地にしたそうです。大明神の名に、私のルーツの手がかりがあるようですが、江戸期の薩摩領主側の記録(何度も写本などされいまに伝わる)にはせいぜい南方神社、伊佐智佐神社の末社と記されるのみ。それ以上さかのぼれないのが残念です。ちなみに、日前國懸神宮にその名がずばりあるのです。
たまたまなのか、それにしても全国でも珍しい名前ですからね。
(続く)
Commented by gayacoffee at 2017-06-24 21:02
前立腺隊じっちゃマンさんへ(続き)

宇佐八幡から「宇佐」の「佐」はどういう意味を持つのか興味があります。全国で「佐」の付く地名が多いのです。古代語の名残でしょうか。坂之上付近に古代、「久佐郷」があったとされます。「宇佐」「伊佐」「佐佐」「須佐」「土佐」…。漢字の意ではなく、「サ」の音に意味があるのでしょうか。「笠沙」の「サ」も関係あり? ぜひ「サ」についてご教示いただきたいと存じます。

中国は紀元前から戦乱やそれに伴う飢饉などで大量の人間、様々な種族が朝鮮半島、そして海を渡り日本へ来ています。渡来人と呼ぶのはヤマト政権が誕生してからでしょう。紀元前後のころにもやってきていて、日本の政治・経済・文明に大きく影響したことは否定できないでしょう。政権に取り入り、そして中には皇祖神につながると系譜を変えた者もあったかもしれません。
ともあれ、日本は縄文、弥生、古墳あたりまでアジアの一員としての他民族の地であった可能性は大きいと思います。その後、大陸・半島の政治情勢の緊迫化で、当時の近代国家を作る必要が急務となり、そして生まれたのが「日本書紀」ではないかと、最近読む本の影響を受けてか、そんな気がしてなりません。
Commented by 前立腺隊じっちゃマン at 2017-06-24 23:30 x
GAYA様御先祖に関わる記録は、旧記雑録などでしょうか。読書をやめてから、ガリ刷りの高価なほうの旧記雑録は、誰かに持っていかれました。

ロマンス語族などと異なり、日本語・朝鮮語の音韻は、研究の緒にもおぼつかないのが現状、よって学んだことの多くはホラかもしれない、と疑っています。
ドイツのおばちゃんが音韻から、「クメ」族は奈良山中の戦闘集団、と論じた論文一本のみを信用しています。想像をたくましくすると、久米の子達(こら)と万葉でおだてられ、白村江で壊滅した戦闘員の残存と、久留米・久米島などは、関係あるのかなと思っています。防人についても、出征記録はあっても、帰還記録が皆無であることから、古歌の、海往かば水浸く屍山往かば草生す屍、というのは盛った表現ではなく、壮絶な実話なのでしょう。

セ・サにつきましては、02:04に投稿させていただいたとおり、古代朝鮮語の重要拠点、という解説以外は、目にしたことがありません。
熊本の佐敷・葦北について、現今は地名と設備とが南北混在していますが、、サ・シキ=重要拠点である集落、ア・シキ=南の集落、と解してよいのではないか、と思っています。和田名のナ、葦北のタが何を意味するか、わかりません。大宰府に吉木とい集落があり、その南の芦木は、大宰府官人が下宿したり送別会を開いたりした場所、と論じている人がありました。
別考。サシ・キ=城・城、アシ・キ=芦・城とすることも、特段の無理はありません。泉南には春木=原・城、沼木=沼・城という地名も存在しますから。しかし九州では、鹿毛ノ馬神護石直近の集落大城をダイギと発音していますから、前者を採りたいなぁ、というところです。
これらは、阿久根について鹿児島の研究者がア・クナ=クナ国の南にあるクマソ国の領域、と論じていたのを、ん?クナ国の南部でないとオカシいのではないか、と思ったとき、ついでに考えたのでした。

我が家は中国の王様の末、という伝承を、荒唐無稽と笑った研究者がありました。敗走した者の子孫、と敢て伝承する意味を、慎重に扱う必要があると思います。確かに平家落人の8割は嘘、明治に掘削した井戸を太閤水と宣伝している、など牽強付会・我田引水は付いてまわる話ですけど。

では、4時起きの出張ですので。
Commented by Ex-Tannyaman at 2017-06-25 14:57 x
ガヤマスさんへ

他民族の地===>多民族の地?
Commented by gayacoffee at 2017-06-25 17:59
Ex-Tannyamanさん、ありがとうございます。
ご指摘の通りの変換間違いです。
ちなみに「巻くらざっ」もつい、ENTERキーを押すくせがあって誤字変換したまま、校閲なしでアップした結果です。よくやる失敗です。これをトラップにするほどのアイデアは思いつきません(笑い)。
Commented by gayacoffee at 2017-06-25 19:57
前立腺隊じっちゃマンさん、ありがとうございます。
私の先祖につながる話なのかは不明ですが、珍しい苗字なので、たびたび「ワカミヤさん」「サキミヤさん」「クサミズさん」とか間違われ、子どものころから人の名前を間違えるなよ、と嫌な思いをしました。大人になって、なぜ珍しいのか、と不思議に思ったのがそもそも地元を調べたいとの出発点です。調べはまったく進みませんけど。
実家の庭や裏の畑(実家のです)にはごく普通に土器片が落ちていて、それが当たり前だと思っており、ところが店のある坂之上駅周辺の畑にはないわけで、やはり古くから住むべき場所、住みやすいかは別として、そんなところにおそらく古墳期には広い村があったのだろうと考えます。どこかに墓もあるはずでしょう。実家近くで公共下水道工事をした際、地下から「おもしろい石」が出たと現場近くの人の話を又聞きしました。工事関係者は公共事業だろうと、工事がストップする遺跡類はなかったことにします。この時も「面倒なことになるから、私たちが捨てます」と掘り出して持っていったそうで、何だったのか、いまとなっては残念なこと。石組みだったとの情報もありますが、さだかではありません。
ただ、1mほど掘ると実家の近くにはなにか出てくる可能性はまだ残っているかもしれません。
しかし、学問的に重要な調査対象かとなると別で、しかも歴史として記録に残っていれば別ですが、それはなく、発掘調査される可能性は今後も低いでしょう。偶然、人骨でも出てくるといいのでしょうけど。
話はとびますが、2音に古代の匂いを感じます。例えば「アタ(阿多)」「ヤク(屋久)」「タネ(多祢=種)」…。「クメ」もそうですし。
Commented by Ex-Tannyaman at 2017-06-29 18:02 x
Aさん
さて僕からお題です。「葦」って何て読みますか? そうですね(だれも答えていないw)「よし」「あし」両方ありますね。僕も調べきれていないですが、米朝はんだったかな、「むかし吉原は葦の生える【あしはら】だったのが験担ぎに【よし原】【吉原】になったといいます」とのこと。ほんまかいなw

わたし
「葦・芦原・ヨシの随から天井を・鵜殿のヨシ原」は、私自身が先日から他者に向けて書こうとしていたトピックなんです。私が時々投稿する故郷のブログのコメント欄に「大宰府に吉木とい集落があり、その南の芦木は」とあったのがきっかけです。<=== 前立腺隊じっちゃマンさん関連 at 2017-06-24 23:30
Commented by 前立腺隊じっちゃマン at 2017-07-01 22:38 x
この項でEx-Tannyaman様へのメッセージ、お許しください。

私の多弁に御不快の御様子、申し訳なく思います。
かつて九州王朝関係の後裔、加世田の唐物崩れの後裔との御交誼で、禍事に立ち入ることが苦痛で素人詮索の手段が閉ざされた頃、手がかりを求めて書き込みをしました。何も得られぬまま還暦前にすべて放擲したのですが、GAYA様の御興味が面白く、つい楽しませていただきました。すみませんでした。

GAYA様も、あるいは独善の披瀝と感じておられたのかも、と反省しています。真意は多面的な見解を求めておったのみ。唯一残した楽器の趣味は、ますます葦を細くして、もはや独善の域かもしれませんが。お騒がせしていること、お詫び申し上げます。
Commented by Ex-Tannyaman at 2017-07-02 08:28 x
前立腺隊じっちゃマン様

Aさんと私の間で、「葦・芦」の読みに関して験担ぎで「ヨシ」と読んでいる事例があるので、「芦木と吉木」も同様の事情による命名なんだろうか、と話題にしただけのことでした。ガヤマスさんのブログに転載すれば、多方面から興味深いコメントが寄せられるかも知れないと期待しての投稿でした。他意は全くございません。

ついでながら、Aさんとは歴史面ではなく言語に関連して昨日まで、「悪太郎(ガヤマスさん世代が応援なさった投手ですね」「悪の古い訓読み:マガ(例:禍事)」「悪人正機」「狂言の悪太郎」の辺りまでやり取りが続いております。
Commented by gayacoffee at 2017-07-02 11:32
Ex-Tannyamanさん、ありがとうございます。
ここ2,3日忙しく返信が遅くなりました。

葦の「アシ」「ヨシ」という読みは実に興味深いですね。験かつぎだけなのか、おもしろいご指摘です。
「悪」も、「鬼」に通じる逆験かつぎもありますね。「悪源太」なんて呼ばれた武将もおりました。強さ、畏怖が混じっております。
Commented by gayacoffee at 2017-07-02 11:52
前立腺隊じっちゃマンさん、ありがとうございます。
決して「多弁にご不快のご様子」ではないかと、推察いたします。今後とも、様々ご教示くださいませ。
九州王朝の後裔、加世田唐物崩れの後裔とのご関係もまた興味深い話ですね。
明治になって、古い伝承、伝説なども含め、近代国家建設・国家神道化の過程で、それぞれの地域の文化が野蛮、時代遅れ、はたまた反国家的といったムードで壊されて、新たな“神話”が作られ、それが現代も信じられている面に出くわすと啞然とします。村の祠が国家の下で合祀されたのは誠に嘆かわしく、また本来の日本の祈りの姿と反することだったと感じます。
私はただの歴史好き。素人の域を脱することもできず、ただただ土器片を拾うばかりです。先日、考古学の専門家から成川式土器の資料をいただきました。成川式は80年代以前、弥生式のひとつと考えられていたそうで、近年、地元の考古学者らが調査・研究を進めておられるようで、専門家の活躍に期待したいところです。ただ、考古学はブツが出てなんぼでしょう。その点、民間工事ばかりか、公共工事の現場で遺跡がつぶされている現実はかなしいです。行政の文化予算の配分に課題があると思います。
書いているうちにかなしくなってきました。
Commented by 前立腺隊じっちゃマン at 2017-07-02 22:12 x
EX-Tannyaman様
いや、なんとも、空白の年月を埋めるような多弁、やはり恥ずかしく思っています。
恥掻きついでに「葦」の読みについて、韓国の言語学者の意見がヒントになるかもしれません。万葉ことばは百済語そのもの,と言うほうが理解が良い、西日本方言はその末、というもの。後に滅亡した新羅が関東に影響を与えた、西日本のコメは東日本でシャリ(現代の朝鮮語でサル)と言う如し、という内容だったと思います。三波春夫はヨシキリが~と歌い、西日本にはアシ地名が多いと思います。
ならば、大宰府の吉木・芦木はナンダ、という難問にぶつかります。私は現地で、ヨキ・シキ(良き集落)→ヨシキ 、ア・シキ(南の集落)ってことで手を打とうと思いました。専門家が聞いたら、ひっくりかえって笑うかもしれん、とも思いましたが、ヨシ・キ、アシ・キと切って、ヨシを植物とすることは西日本の発音としてあり得ないと考えましたので。また良き城(キ)ならヨシキに転化しませんし。
漢字は、支那字の発音から採った当て字の場合、区切り・語意のいずれにも悩まされます。葦北のタ、阿多のタが何を意味するかわかりません。GAYA様から御教示いただいた和田名のナも。

音韻についても、沖縄に保栄茂と書きビンと発音する地名があって、私見では、16世紀にPUIMUと発音しており、PUIN → BIN の変化であろう、と保栄茂の方に説明したものの、原義は不明だし、郷土史家の方にはそれは無いサーと言われるし、深入りは疲れます。神宮皇后説話のように、ここは清々しいからスガ、という邪気の無い嘘のほうが、よほど扱いやすいと思いました。

先々週、泉南のとある悪党が築いた山城を走って登坂中、両ふくらはぎがツルという悲劇に見舞われました。まさか悪党の結界が残留磁気のように利いているわけでもなかろうが、とボヤきながら、崖に自生のビワを食い散らかして帰ってきました。どうやら悪は、強いです。
Commented by Ex-Tannyaman at 2017-07-03 11:01 x
前立腺隊じっちゃマン様
丁寧なご説明ありがとうございます。大宰府における芦木・吉木の命名が東京・大阪における葦(芦)・ヨシの読み替えとは同等に論じられないと理解いたしました。私自身から言い出しておきながら、地名・人名に関わる名詞ですので、これにて失礼いたします。
Commented by gayacoffee at 2017-07-03 13:26
前立腺隊じっちゃマンさん、ありがとうございます。
和田名の名は「ナ」ではなく、「ミョウ」なので、荘園制度の名残かと推測します。

ただ、私が個人的に興味を持っているのが「名草」(ナグサ)です。ここに「ナ」が出てきます。
紀州・和歌山にその昔、「名草戸畔」なる女性族長がいて、東征中ののちの神武天皇と戦い亡くなったと神話にあるそうです。紀の国は古墳から鉄製の馬の鎧などが出土するなど古代から栄えた地であり、またなにより熊野を抱く地です。国造家がいまもあるんじゃなかったでしょうか。
熊野(クマという名称が実に!)の西の浜あたり、和歌山市・海南市に「名草」伝説があり、「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」という本では、あの小野田寛郎氏に生前直接インタビューした内容が書かれています。小野田氏は3つに裂かれたうちの名草戸畔の頭を祀る「宇賀部神社(おこべじんじゃ)」宮司家の連なるそうで、家伝として内々に語り継がれてきたことを、著者に残しておられるそうで、そもそも“神武東征”よりも前に、九州から紀州へ移り住んだのが先祖、といったことが書かれていました。
教科書につづられる歴史の視点から見ると、そんなばかなと思うでしょうけど、あの小野田氏の言葉ですからね、興味深い内容です。
ちなみに、神様にも「名草彦命」と「名草姫命」がおられ、但馬にも「名草神社」があるようです(ネットでの検索)。
和歌山では名草姫命と名草彦命を祭る神社がいくつかあるようで、その本社は吉原の中言神社とか。ここで「吉」が出てくるというオチでした。
Commented by 前立腺隊じっちゃマン at 2017-07-03 20:36 x
この項、長くしてすみません。「みょう」の件、有難うございます。知りませんでした。壱岐の「触(ふれ)」鹿児島の「段」は珍しいけど、ほかは「丸」なのかな、と思っていました。

征服された側の伝承は、通念を破る部分の公表が、とてもデリケートなのでしょうか。40年ほど昔であったか、出雲大社権禰宜が、公表をはばかる口伝があります、と月刊文春紙上で述べておられました。またどこも、権禰宜より跡継ぎ世代のほうが、ネット批判を実感しているせいか、口が堅いように感じます。

和歌山は、雑賀衆しか頭にありませんでした。神武・五瀬の進軍ルートなのですね。
明日の宿は関空直近、和歌山方が釣野伏せりを仕掛け、塙団右衛門が戦死した場所。背後を神武の船団が南下することは、考えたこともありませんでした。台風のせいで、暢気に考え事している場合ではなくなるかもしれませんが。

西日本の「ヨシ」地名の背後にある人文的理由は、考えてみたいと思います。京都に憧れてタニ地名「鶯谷」がつけられた、などの近代以降の命名ではないので、まず地図とにらめっこが良いでしょうか。
Commented by Ex-Tannyaman at 2017-07-04 19:04 x
参考にもならないでしょうが、近畿地方で私が知る「芦」の付く場所は、大阪の芦原橋駅と兵庫の芦屋市だけです。特に後者は裕福な人々が住まう場所として古くから知られており、験担ぎで名称を変更するという意識はなさそうです。前者については、不動産業者の評判が芳しくない。

高槻市鵜殿のヨシ原は、地名と言うよりも「葦が生い茂る河川敷内の範囲」を示しているだけのようです。これは、後世の験担ぎでヨシ原と呼称したのでしょう。ここで採取された葦は、宮中の雅楽で使用される篳篥の部材として貴重な存在です。ヨシ原は年に1回焼き払われ、「鵜殿のヨシ原焼き」として有名です。

ついでに、串木野には数年前まで下名(しもみょう)という大字がありましたね。
Commented by gayacoffee at 2017-07-04 19:34
Ex-Tannyamanさん、ありがとうございます。
そういえば、日本の古名を「豊葦原」といいますね。
葦は、浄化作用があり、塩分にも強いため、農耕文化とともに歓迎され、その風景が「豊葦原」ではないか、と想像します。ここでは「アシ」ですね。
葦舟も神話で出てきます。足の立たぬ子を川に流す、その舟が葦で作られていたと。その子が恵比須様・蛭子神になりますね。興味深い、海の神様でもあります。
Commented by Ex-Tannyaman at 2017-07-04 21:13 x
ヘイエルダールは葦船を使ってインド洋を航海したらしいですね。そもそも葦船は古代エジプトを含めて諸処で利用されていたとのこと。葦の構造を見れば、束ねてフロートにできることが判ります。

パピルスも葦の他部が原料だったような?
Commented by gayacoffee at 2017-07-06 12:34
Ex-Tannyamanさん、ありがとうございます。
パピルスもそうだったと思います。
確か、映画「十戒」で、将来モーセとなる赤ちゃんを、エジプトの王から命を守るために実母が川(おそらくナイル)へ流すシーンがあり、その川に葦、パピルスが生えていました。さらに、赤ちゃんを入れた小舟のような籠がパピルス製のように思えました。
川へ流すというのが蛭子様っぽくて興味深いと記憶しているシーンです。
by gayacoffee | 2017-06-22 14:54 | 焙煎人日記 | Comments(23)

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