南朝の忠臣「谷山氏」の居城・本城
2008年 08月 07日
JR慈眼寺駅のホームに立つと、北側にこんもりと横に長い山が見えます。
ここが、かつて鎌倉から南北朝期にかけて約200年谷山一帯を治めていた「谷山氏」の居城「谷山本城(千々輪城)」跡です。
鹿児島の古代から中世まで、細かくいうと伊作島津家の忠良が本家を息子・貴久に相続(乗っ取り?)させるころまでの歴史は、実際には闇の中です。
理由は、江戸時代に入って、お家安泰のため、いかに島津家が薩摩・大隅・日向(一部)を古くから治めていたかを、島津家中の「御用学者」らが歴史を改ざんして、後世に伝え、それを現代の歴史家たちが鵜呑みにしているからです。
島津家は源頼朝の庶子説をとりますが、そうでないというのがまともな歴史家の常識です。
一時「藤原氏」を名乗ったこともあるほど。藤原本家の筆頭・近衛家との関係からみても、近衛家に仕えていた一族、とみるのが妥当でしょう。
鹿児島を覆う「島津史観」では、ただの豪族扱いされている谷山氏ですが、南北朝期には大層な勢力があったようで、1341年後醍醐天皇の皇子・懐良親王が南朝方の「征西将軍」となって鹿児島に来た際、頼ったのが谷山氏でした。現代の感覚からいうと、天皇の皇子がなぜ南のはてのいち豪族を頼ったのか? と不思議でしょう。
実証する資料は、「島津史観」によって抹殺・改ざんされ、正確には今に伝わっていませんが、しかし、懐良親王の下向こそ、谷山氏にそれだけの勢力があったという証拠になるでしょう。
地元の言い伝えによると親王は、谷山和田名の久津輪崎付近に船で着いたそうです。久津輪崎は、埋め立てにより、いまは産業道路、交通安全センターあたりにあり、海に突き出した岩礁でした。かつてここには和田中学校がありました。
久津輪崎に着いた親王は谷山氏(当主は隆信)の城に入り、その後、「御所が原」といわれる地で6年過ごし、北朝の島津良久と戦い、紫原、笹貫あたりで激戦が繰り広げられ、敗戦後に親王は熊本の菊池氏を頼って北上します。「御所が原」は現在、南部斎場のある場所です。
鹿児島・谷山でも南北朝の戦いが、自らの所領安堵ともからみあって激しかったと想像されます。
こんもりと、遠くからはただの横に長い山としか見えない「本城」ですが、登ってみると遺構は比較的良く残っています。
南九州の中世の城郭は、シラス台地の地形を巧みに利用し、空堀や堀切、土塁などを築いています。鹿児島県内に何百もの、こうした山城がありました。「本城」はその中でも遺構が良く保存されている貴重な史跡です。この城は、本城(本丸のある場所)、弓場城、陣之尾から構成され、切り立った空堀や浸蝕谷でそれぞれ仕切られています。
山城の麓にある公民館横から本丸に向かって登れる小道(大手)も整備されています。ぜひ訪れたいスポットです。
なお、頂上の本丸跡からは谷山の町並みが遠望でき、春には地元の方々が植えた桜が見事に咲きます。また、小さな愛宕神社がまつられています。
順番にご質問お答えしましょう。
①どうやって調べたか→「鹿児島県の歴史」(山川出版社刊)におおまかなことが載っています。ただ、鹿児島県を覆っている「島津史観」で観ると見過ごすことが多いでしょう。鹿児島はなんでも島津氏、しかものちに総領となった伊作島津家(日新公・義久・義弘…)を「正義」とする史観です。鎌倉期から島津氏は薩摩・大隅・日向を治めていた、とする間違いを県民に与えてしまっていますが、実際は鎌倉武士と、それ以前からいた豪族の間で争いが絶えず、島津家の「三州統一」は戦国期に下ります。この疑問点を持つことが重要だと思います。
②谷山の家系になぜ興味を持ったか→理由は故郷であることに尽きます。谷山は鹿児島市内でも独自性を持った地域です。「谷山インノクレニゲ(谷山犬の食い逃げ」と城下士にさげすまれつつも、谷山には独自の文化と誇りがあり、その原点はかつて島津氏からも独立した存在であった、ということでしょう。でも、歴史からかなり消されているのが現実です。それゆえ、自分たちのルーツも含め調べたいと思ったのです。谷山さんがご存じのことをぜひ投稿ください。
私は歴史研究者でも、教育者でもない、ただの歴史好きです。ひとに教えたりするなどおこがましい限りです。伝えられるほどの知識はなく、ご期待に応えられるとは思いません。
おしゃべり程度ならどうぞ、当店までご来店くださいませ。
私は谷山氏の歴史、というよりも谷山・坂之上を中心とした南九州から沖縄、同時に黒潮の流れる南西諸島から四国、熊野にわたる地域の歴史に興味を持っております。
中世の薩摩・大隅の歴史がどうも変に思えるんですね。私は学者ではないので学問的調査・研究などできませんが、「『島津どん』がず~っとえらかった」とは私には思えないのです。谷山は中世、反島津色が強かったようで、山城も多く、その分戦さも多かったでしょう。私の住む坂之上の古い村も城郭のような造りの名残があるようです。しかし、島津史観ではなにひとつ不明。ここに鹿児島の歴史の不透明さを感じ、ブログで書き連ねている次第です。
ぜひご来店ください。地図は、当ブログのカテゴリ「マップ・交通アクセス」を参考にしてください。ポイントはJR指宿枕崎線沿いの道路です。黄色い「自家焙煎コーヒー」というノボリが目印です。
ご返信が遅くなり、申し訳ありませんでした。
私は東京に住む谷山と申します。祖父が鹿児島東市来の出身です。島津家に仕えていた・・・などという話をおぼろげに聞いたことがありますが、このたびルーツを知りたいと思い調べています。
歴史の改ざん・・などというのがあるのですね。
歴史の改ざんを強く唱える歴史家はあまり聞きません。私は自分のルーツを探る中で実感しておりますが、専門家でもなく、「島津史観」などという言葉も勝手に使っています。ただ、中世の薩摩の歴史があまりにも資料的に乏しく、のちに本家を継ぐ(?)ことになる伊作島津家が神格化されていると感じます。奈良・平安ごろの薩摩・大隅はどうだったのか、専門家の方々の研究を待ちたいところです。
以前からこちらのブログを拝見しておりますが、初めてコメントさせていただきます。
私は歴史にはあまり詳しくないのですが、谷山に住み始めてから谷山という土地がとても好きになり、このブログに書かれている歴史に関する記事など興味深く読ませていただいています。
以前、市立図書館に通い詰めていた時、サンカに興味を持ったことがあり、サンカでキーワード検索して、竹細工に関する本を借りて読んだ事がありました。
竹細工は、歴史的に同和問題とのからみがあるようで、その本の著者は、“竹”だけでなく、同和問題やサンカについても様々な知識をお持ちのようでした。
その本の中に、金峰町で竹細工を生業としておられる方のインタビュー記事が載っていました。
その方は、いわゆる“被差別者”なのですが、なぜ“被差別者”となったかという理由について『昔、自分の先祖はこの辺りの豪族だったが、島津との戦いに敗れたために、“被差別者”とされてしまった』というような内容の事を語っていました。
この文章は、私にとても大きな衝撃を与えました。
戦に勝った負けただけのことで、その後何百年も差別されるようなことがあってはならないと思います。
それ以来、私は、歴史〜特に島津家に関する鹿児島の歴史に対して、距離をもって眺めるようにしています。
島津家の歴史を否定するつもりはありませんが、歴史というものは一直線上にあるのではなく、多層的なものなのだと、客観的に眺めるようになりました。
鹿児島の人間が、鹿児島の様々な歴史を深く学べるような時代が来る事を願っています。
被差別者問題にはくわしくないため軽率なコメントは書けませんが、その成り立ちのひとつに戦さで敗れたためということもあると、以前読んだ本に書いてあったのを思い出しました。
21世紀にあっていわれなき差別があって良いはずもなく、自分の中に、なにかと理由をつけて他人を差別する心がないか、私たちは振り返ってみる必要があると思います。
母方が谷山姓です。
谷山家の歴史を検索していたら、こちらのブログに辿りつきました。夫が財部と言い、夫の父は薩摩川内出身です。曽於市にある元・財部町は財部一族がいたところだとかそういう話を聞くうちに、自分の先祖は一体どういう人なんだろうと興味を抱くようになりました。母方が谷山で実家は鹿児島市内の田上にあり、昔は武士だったらしく、両親が結婚するという話が出た時に、百姓の家だった父方が「身分が違いすぎる」と逆に反対したという話を聞きました。
私の両親は家柄には全く興味がなく、そういう話はほとんど聞いたことがありません。戸籍を取ってみましたが、明治初めくらいまでしか残っていませんでした。この頃の戸籍に登場する名前をネットで検索してかろうじてヒットしたのが、私の母から数えて4代前の谷山直左衛門の息子で町田家の養子となった、町田才次郎の養父「町田清次郎」でしたが、谷山の人間ではないですもんね。。。谷山やすひささんは宗家ということですから、もし繋がりがあるなら母方の谷山はきっと分家なんでしょう。
現在、谷山に谷山さんはそう多くいないのではないでしょうか。幕末のころ都城に谷山義純だったか、刀鍛冶がいたようです。
「薩摩の刀と鍔」という本に、谷山本家のことが書かれており、本が書かれた昭和40年代には鴨池に住んでおられたようです。
谷山一族を探すブログを立ち上げてみてはいかがでしょう。検索でアクセスしてこられる末裔がおられるかもしれません。
谷山一族を探すブログ・・・面白そうですね♪
ただ私はかなりの無精者で、どなたかのブログにコメントを書くのは出来ても管理はできないかも。。。夫は逆にマメな性格なので、手伝ってもらえないか、相談してみようと思います。ありがとうございました!谷山関連の本を集めてみるのも面白そうです(^-^)
ご主人に手伝ってもらってブログに挑戦してみてください。
ブログは難しくありません。テキスト文書のような書き込んで、アップするだけ。写真なども簡単に貼り込めます。この私ですら続いているくらいです。ホームページはかなり難しいようです。
ちなみに、このブログでも紹介していますが(カテゴリ「鹿児島のご案内」)、鹿児島市役所のホームページに、アクロバットで読める「谷山市誌」があります。この中に谷山氏のことが書かれています。
とても 興味深い 内容で 尊敬します。
なぜ 今更って話ですが
実は市民体育館周辺に家を買おうとしてるんですが 話を始めてから 嫌なことが続き
なんかあるんじゃないなと思い
谷山の歴史や廃仏棄釈など薩摩の過去を調べています。あの岬や伊佐智佐神社 東前から玉林団地の小道になんか不思議なものがあると嫁が言ってました
よろしければ 因縁的なものがあるとした場合のご意見頂ければ お願い致します。
市民体育館の建っている場所は旧和田中学校です。その前は干拓地の田んぼだったようで江戸期に海(おそらく入り江)を埋め立てたようです。産業道路がかつての海岸線に近いと思われます。
伊佐智佐神社の創建は「往古」とあるだけで不明ですが、平安か鎌倉を下らないと想像されます。いまの玉林団地は坂之上の台地ほどの山(権現山)があり、山頂は平らでかつて「玉林城」(神前城)がありました。戦国期に島津貴久勢に攻められ落ちたとされます。その中腹に二の丸と思われる空間があって、神社社殿の地はそこに当たります。伊佐智佐神社は谷山の郷社として尊敬を集めた社です。「岬」とあるのは、久津輪崎のことでしょうか? かつて、同神社の神事、浜下りでこの岬まで神輿行列が往復しました。
私には霊感的な素質がほぼないので、因縁とかそういうものは良く分かりません。歴史ある地であることは確かですし、古い土地では血なまぐさいこともあったかもしれません。それは全国あちこちにあると思います。
いわゆる「鹿児島」に対する「タンニャマ」アイデンティティがあって、どこからくるのかなと思っていたら、やっぱり歴史なんでしょうね。発掘調査の展示などがふるさと考古歴史館であったりするので、私もできるだけ足を運びたいと思っています。
お話ができてとても良かったです。北条氏について知りたくなりました。また、田沼意次に対する評価が一致した点もうれしかったです。
ありがとうございました。
谷山氏は平姓を名乗っています。谷山氏は加世田の別府氏から分かれ、別府氏は薩摩平氏の一流として繁栄しました。薩摩平氏は平安期に薩摩半島を本拠地に栄え、多くの流を残します。同族に川辺、給黎、頴娃、阿多、鹿児島などの諸氏があります。別府氏は戦国期に島津日新公に攻められ滅びます。
谷山隆信が南北朝に南朝の武将として活躍しますが、その後、谷山氏は守護島津元久に敗れ谷山の地を去ったとされます。応永4年(1397)のこととされます。
木佐木氏は平姓では頴娃氏の分流にもあるようです。
同じ苗字でも氏姓の異なる流れもあり、系図もいくつもあったりするとも聞きます。
家のルーツがはっきりするとよろしいですね。
2013年1月9日の当ブログに少し触れています。
昭和14年5月に農林省の家畜衛生試験場九州支場が置かれたようです。その隣に和田中学校が昭和24年にできました。
以上は「谷山市誌」より。
2013年の1月頃には既に貴ブログを拝読していたはずですが、「ああ、そうだ、そうだ」といった感じで読んだのでしょう。記事内容が頭に入っていませんでした。
女房の甥っ子が熊本大学で学んでいるのですが、幼友達はラ・サール中学・高校を出て東大(の医学部?)を目指して2浪中です。医師である両親の弁は、「あの子は、ああ、そうだ、そうだ、の学習態度なのでダメ!」らしいですよ。
私の脳などがらくたゆえ、過去のことをどんどん消去していきます。自室の片付けは進まないのに脳の中はすっからかです。おまけに、残っている記憶も自分の都合の良いように装飾、あるいは粉飾されているようで、妻や旧友との会話で食い違いが出たりします。
そのくらい適当な方がハッピーでしょう。私は自分で、かなりおめでたい人間だと評価しています。