▲西郷南洲顕彰館。月曜休館。11日~3月16日に「特別展 西郷南洲翁の愛した薩摩刀」が開催。西郷さんは刀好きだったそう
「特別展 西郷南洲翁の愛した薩摩刀~鎌倉から明治期まで~」と題する展示会が、鹿児島市の西郷南洲顕彰館で11日から始まりまして、早速、近所の愛刀家Tさんと一緒に観に行ってきました。久しぶり。20年ぶりかな? サラリーマン生活の最終期で、東京からのお客さんを案内したのが最後でした。
訪れるたびに雨や曇天でしたが、きょう(日付変わってすでにきのうですが)は快晴。桜島も北岳にわずかに雪が残り南岳からは噴煙というすばらしさ。
刀剣展は2階の一部にコーナーが設けられています。展示品の刀剣、拵えはすべて「個人蔵」でしたので撮影を控えました。
興味ある方はぜひ自分の目で見てください。
江戸初期から始まる「薩摩新刀」の氏房・正房らの丸田系、享保の刀剣コンテストで見事優勝した一平安代、上原正清、江戸後期の奥系など相州美濃伝の名刀もありますが、展示品の多くは「波平(なみのひら)」です。
当然と言えば当然。なにせ波平の歴史は1000年を超えます。
平安期、「光る君」の道長のころに大和国から下ったとされる橋口正国を初代として明治の廃刀令まで綿々と続いた刀工一類。鎌倉期作の刀も何振か残り重要刀剣に指定されるほどで、その太刀姿は実に優美。
今回の特別展にも重要刀剣・波平家次の太刀があります。
いやいや見事。同じく鎌倉期の波平の短刀も。
波平は江戸初期から4家に分かれ明治を迎えます。
笹貫の本家は末子が、長男が「坂之上」家、ほか「堀の波平」その後にさらに分家した「鍛冶屋島の波平」です。
これらの家々で打たれた刀も展示されています。
薩摩刀を語る上でその中心となるのが波平ながら、その一方で「なんのひらや~」などと軽んじる地元の刀剣収集家もいるのは、室町から戦国期の戦乱期にいわゆる「束刀」「数打ち物」と呼ばれる消耗品が多数打たれたこと、また波平伝来の鍛刀法による実戦刀の地味さなどもあって評価が低いのが残念。
さらに残念なのが地元の薩摩刀への関心の低さです。
黎明館における刀剣コーナーの貧弱さはまさしく「文化果つる鹿児島」そのもの。「武の国・薩摩」などとえらく歴史好きの話も耳にするものの、史跡の保存のあり方も含めて文化財を大切にし評価しようという姿勢が乏しい。
同じく「薩長土肥」で明治維新を成した肥前・佐賀では江戸期に肥前刀が大変に評価が高かったこともあって、博物館に刀剣の専門学芸員がおられます。
10年ほど前、私の所持刀の銘が「肥前国住~」とありながら長物(ながもの)なのに刀銘という掟破りについて佐賀県立博物館に電話で問い合わせたことがありました。
すぐに取り次いでもらえて、直接学芸員の方の話をうかがえました。これにひどく感激したものでした。
文化財行政とは「箱」ではなく、人事とカネ(予算)の使い方なんだと思いました。
黎明館でも十数年前に「波平展」が開催され、それこそそうそうたる刀剣が並びました。その後、「薩摩拵え」の特別展がありました。
そこでも展示品の多くが「個人蔵」であり、日本美術刀剣保存協会の県支部の方々の大きな協力あってこその開催でした。
黎明館には収蔵庫に数多くの刀剣類があるそうです。所蔵していないわけではない、と。なぜもっと常設展示の数を増やさないのか、やはり予算でしょう。
刀は鉄です。手入れをしないと錆が出てきます。展示も手入れも専門的な知識のある学芸員、またはその管理の下で行うことになるのでしょうが、そういった予算を行政が確保しないと廃れるばかりです。
いや行政だけの問題ではありません。県民の関心のなさもありましょう。
▲南洲墓地から桜島
鹿児島の歴史への関心は薄れているのだろうか…。
そんな思いも持っていましたが、きょう南洲顕彰館を訪れたら、次々と来館者が訪れていて考えを改めました。年齢は比較的高いものの、中には30代の団体も。
さらに、隣りの南洲墓地ではもっと多くの参拝者、見学者が次々と訪れ、2023人の墓碑の中心にある西郷南洲翁、その両側に建つ桐野利秋、村田新八、別府晋介らに手を合わせていました。
なんだか胸が熱くなりました。
薩摩は敗れ賊軍となって、司馬遼太郎の言うには「薩摩ではなく鹿児島県になった」ものの、決してエネルギーは消えていないであろう、と。桜島の地下のマグマ溜まりへの供給源たる姶良カルデラ地下深くのマグマ溜まりのように。
肺がんのためかめまいがあって車の運転を控えている私を一緒に送ってくださったTさんに深く御礼申し上げます。
▼南洲墓地の始まりは、西郷さんら40人が明治10年にここに葬られたこと。のち、12年には有志らが224人の遺骨をここに改葬、16年には鹿児島県外で戦死した薩軍の遺骨も家族が集めて合計2023人が埋葬したそうだ。この内戦での戦死者は薩摩軍6784人、新政府軍6843人。うち4分の1が田原坂での戦死とされる

▼西郷南洲翁の墓石。墓碑銘は川口雪篷の筆
▼一緒に訪れた愛刀家Tさんが撮影してくれた
▼きょう(11日)はすばらしい天気だった
▼西郷南洲顕彰館前に「縄文前期の遺跡」の碑。昭和40年建立。大龍小あたりまでの上町台地で縄文期の遺跡があるそう
▼西郷南洲顕彰館で購入。そもそも西郷翁の言葉を記し残したのは東北・庄内の方々で、「遺訓」としてまとめ伝えられたのだ。鹿児島人ではなかったというのがなんとも…。いや庄内の有志の方々のおかげです