覚せい剤使用で騒がれる芸能界ですが、今度はがん克服活動で注目された元落語家が逮捕されていたとの報道。芸能界で薬・覚せい剤…そりゃあ出回るでしょう。もともと一般と異なる別世界なのですから。しかも、一般社会=堅気(かたぎ)の世界ですら高校生が大麻や覚せい剤を所持している現代です。
私は、堅気の世界と芸能人らがいる虚飾の世界をあたかも同じ舞台にある、と錯覚させてしまったことが根底にあり、その原因はやはりテレビという超大衆メディアのせいだと思っています。
誤解を受けるのを承知で表現しますが、私はあえて「芸人ふぜい」という、少し前まであった言葉を使おうと思います。
「〇〇ふぜい」というと、「もの書き」「絵描き」などと並び、かつてまともな人間が就く職業ではなく、旧家などでは家の恥とさえされたほど。なにせ当時は「旧制中学―旧制高校―帝大」で官僚か学者になるか、旧軍の幼年学校―士官学校に進み職業軍人になることが栄誉とされていた時代です。多くの庶民は尋常小学校を卒業したら社会に出て働くのです。
私が、もともと差別観を伴う「〇〇ふぜい」という言葉を使わざるを得ない理由は、芸能界の興行性に根ざす胡散臭さ、芸なし芸人の勘違い、プロダクションとメディアのなれあい…これらの虚飾の世界が、テレビやネットを経たとき、「芸能界はかっこいい」「芸能人はすごい!」と変化し「私も有名人になりたい」と一般社会へ侵入していく仕組みを、強く恐れ早くこのバカバカしさを破壊すべきと思うからです。
「興行」にはかつて、その筋がかかわっていたように、現代でもその匂いは消えず、テレビやネットというスマートで洗練された組織によってカムフラージュされつつも、一皮むけば薬物・覚せい剤の情報がはびこる、別社会。これが「芸人ふぜい」の正体です。
文化人面(づら)する芸人には気を付けましょう。芸人も文士も絵描きも活動屋も、さげすまれることをエネルギーとして芸・技術といった文化の花を咲かせたのです。坂田三吉もしかり。古くは能・狂言・歌舞伎の世界もそうでした。芸人が尊敬され、憧れられたら「センセイ」になるではありませんか。
「先生と呼ばれるほどのバカになり」(でしたっけ?)
かつて、「アイドル」が「雲の上の人」だった時代は、芸能界は一般社会と別世界であり、両者には深い河が流れていました。手が届かない「銀幕の人」-ゆえに「アイドル」でありえたのです。
いまは昨日まで街を歩いていたド素人が芸能デビューで一躍有名になる、「芸能人」ならぬ「芸ノー人」の時代で、やっかいなのは、メディア・スポンサー・プロダクションがこぞって、イベント性・話題性主義に陥っていることです。話題性はそもそも長続きを前提としていません。いつも「ツナギ」デス。ブームが去れば、芸なし芸人はポイ! 「ツナギ」で終わらない努力をした芸人が長く芸能界に生き残っていますね。
テレビの登場は各家庭のお茶の間からだんらんを占領し、「個の時代」になって今度は携帯電話のワンセグとして入り込み一人ひとりの貴重な時間を侵略して脳みそを“食べて”いきます。テレビは、人々の夢を食う「バク」です。
おバカな若者らはテレビに頻繁に映る人を「いま流行の人」とし、芸能界に生息する不思議な生き物「芸なし芸人」らにも歓声を挙げるのです。数多くの芸人を集めたトークショーでは、芸人同士の楽屋話がどうしようもなく延々と、しかも計算された内容で“暴露”され、「客席」と称する「視聴者」らしき人々がこれまたタイミングよく大笑い、あるいは声援して、お茶の間の自分も、あたかも「客席」のひとりのような錯覚に陥るような「舞台」を作り上げました。フジテレビ「笑っていいとも」はその先駆けです。
もはや芸能界は、憧れの手の届かない世界ではなく、すぐ隣にある、いつもでアクセスできる世界へと変貌したかのように見えました。
しかし、今回の薬物・覚せい剤の問題で、やはり芸人の世界はテレビ・インターネットの画面を通してだけが“真実”、という虚飾である正体をさらけ出します。ワイドショーは逮捕・取り調べ中の彼らの生い立ちなど繰り返し放映し、「転落」などと表現します。
違うのです。芸人の世界は、一般社会とは異なるのです。「転落」などと、一般社会の常識を持ち出すのがおかしいのです。彼らは「芸人ふぜい」。いわゆる「堅気」ではなく、彼らはテレビ・ネットの中だけに生息する人々ですから、これこそ実はどこぞの世界のご落胤、といった生い立ちか、あるいは貧乏で苦労を重ねて這い上がってきた経歴こそ、似つかわしいのです。年齢はおろか、都合の悪い情報は消されます。
彼らの真似を、一般の者がするところに問題が出てくるのです。
私は彼らをあえて、「芸人ふぜい」と呼ぶべきと決意しました。
確かに私は、頑固者・偏屈者であり、明治生まれの祖父に愛されながら育ち、その価値観を根底とする「保守」かもしれませんが、同時に、自民タカ派のセンセイ方などが忌み嫌う戦後教育を受けたお蔭で、他者の存在・異なる思想を認めることが自分自身の自由・権利を守ることでもあると学びました。
ゆえに私の言う「芸人ふぜい」は差別語ではありません。異なる世界の存在を強調する表現です。
彼らには、私などが一生かかっても得られないような収入を1年で稼ぐチャンスがあります。テレビが作る「有名人」という名誉をもたらされる機会があります。
そういう意味では芸人は“渡世人”なのでしょう。
渡世人、というと一時の反体制思想が転化して「ロマンポルノ」と並んで作られた「ヤクザ映画」で、渡世人を美化するという愚挙を作り手も観衆も行いました。銀幕あるいはテレビの中の虚像を実像と錯覚させ始めたのです。その最たる結果が、引きこもりのゲームおたくです。もはや現実と虚飾が逆転しています。
ただひとり、スクリーンから現実世界と渡世人の世界の深い溝を、メッセージとして送った映画があります。
「フーテンの寅 男はつらいよ」の主人公・車寅次郎です。
寅さんは、美しい女性にいつも一目ぼれし結局はフラれ再び傷心のまま旅に出る、という設定ですが、寅さんは実際はフラれていないのです。フラれる前に逃げる。
「俺はよ~渡世人だからなあ。堅気の女を幸せにはできねえよ」
なんて言いながら、柴又駅の暗いホームで、妹さくらに半分泣きそうな顔をして笑いながら、どこへ行くでもない電車に飛び乗ります。
寅さんは、父平造が芸者菊との間に作った子供で、16歳の時に父親と大ゲンカをして家を飛び出したという設定。第1作はテキ屋稼業で日本全国を渡り歩く渡世人となった寅次郎が20年後に突然、倍賞千恵子さん演じる腹違いの妹さくらと叔父夫婦の元に姿を現すところから始まります。生まれにして、愛する妹さくらとは母親が異なる、のです。柴又「とらや(のちに「くるまや」)」は、渡世人の寅さんが唯一戻ってこれる故郷であり、甘えられる堅気の衆のいる場です。
山田洋次監督は、寅さんという渡世人を、「あんな気ままな人生を遅れれば」との皆が心に抱きながらなしえない願いの象徴として登場させ、同時に、堅気の中では生きられない渡世人・寅さんの悲しみをも伝えているのではないでしょうか。
私自身は「しがないコーヒー屋のオヤジ」です。渡世人ではありませんが、しがない商いをしています。
この仕事も少し前まで、決してほめられたものでもなかった、と記憶しています。私の表現にすれば、「コーヒー屋ふぜい」。しかし、そう呼ばれると、「へいへい、そうでございますが、一寸の虫にも五分の魂、と申しましてな…」など意地も出てくるし何かやりたくもなるのです。