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谷山地頭館跡~鹿児島市立谷山小学校

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鹿児島市立谷山小学校の正門(右下写真)から入って右手に、「谷山地頭館跡」という石碑があり、その背後に説明板も立っています(左写真)。江戸時代、この地に島津藩直轄谷山郷の地頭館が置かれていました。地頭仮屋とも言います。

かつては、石垣に囲まれ、正門側は棟石のある石造りの塀が高さ2・1m、長さ113・5mも続いていたそうです。地頭館周辺には「麓」と呼ばれる、薩摩独特の武家集落が配置されており、中でも地頭館の周りには上級郷士の屋敷がめぐらされ、その地域の軍事、行政の拠点でした。
谷山でも石垣の続く武家屋敷が残り、往時をしのべます。
地頭館内には、杉、楠、孟宗竹などが植えられ「森山」とも呼ばれていたそう。明治5年(1872年)に第15郷校となり、明治9年に「森山小学校」となったとのこと。谷山小学校の前身です。

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薩摩は、戦国期が終わりを告げても、一時は九州一円を支配するほどの勢力を誇った武士団をリストラせず、武家集落「麓」を藩内の要所要所113カ所に配置、藩外から侵入する“ヨソモノ”を監視、迎え撃つ態勢を、幕末まで二百数十年間続けました。これを「外城制度」と呼びます。谷山麓もそのひとつです。
江戸時代、世間は泰平の世にあっても薩摩は臨戦態勢、“軍事国家”のままでした。

子供が狙われる凶悪な事件が相次いだ事もあり、同小学校正門には「関係者以外立ち入り禁止」の看板があります。史跡見学が自由にはできそうにないため、塀ごしに写真を撮りました。
参照:谷山小学校内説明板、「谷山の歴史と文化財」谷山観光協会刊
Commented by Ex-Tannyaman at 2016-08-10 12:23 x
小藩であった高鍋藩は廃藩置県により、一時、高鍋県となったが、士分の構成は次の通りであり、上士以外は自分で耕作する形式であったらしい。

上士(給人&小給)
中小姓
徒士
足軽
医師
組外
職人

なぜ、こんなことを書いたかと言うと、「谷山郷の麓」の出身であると胸を張っていたが、藩レベルである高鍋の士分構成と比べて、谷山の麓における士分はいかほどのものでもなかったのでは、という思いがあります。地頭と自耕作の郷士だけ。

私が記憶している限り、谷山の麓には武家門はなく、外敵の来襲に備えるための生け垣と石垣程度であった。小学校の創立とともに武家門が消失したとも思えない。
Commented by Ex-Tannyaman at 2016-08-10 14:38 x
追記
胸を張っていたのは麓の同級生連中。私の先祖は、小松原にあった島津別邸付近の郷士に過ぎない。高鍋藩で言えば職人程度かな。
Commented by gayacoffee at 2016-08-12 17:12
Ex-Tannyamanさん、ありがとうございます。
谷山とか、川辺、加世田、出水、高山といった大きな麓(武家集落)は、藩(島津本家)直轄地で、それゆえ地頭所を置いたので、郷士でもこれらの麓は規模が大きく、禄高も高かったと想像されます。これに対し、私領(一門・一所持ち)の麓の侍は“陪臣”と見下されていたそうで、田舎者ほど田舎をけなす傾向があるなあと笑えます。
私が興味を持つのは、直轄地がかつて島津勢、あるいは本家(元は伊作家)に敵対した勢力がいた場所が多いように思うからです。川辺の人に聞いたところ、「島津っどんのことをあまり良く言わん」土地柄だそうです。江戸初期に、麓が形成される過程で、“占領軍”として麓侍=日新、貴久、義久・義弘への貢献者が駐留します。島津家がいかに反乱を恐れていたかが想像されます。
谷山では、やはり谷山五郎が英雄ですよ。
Commented by Ex-Tannyaman at 2016-08-12 21:20 x
谷山五郎の時代と、江戸末期または明治初期とでは士分の扱い方が異なるでしょうね。とは言うものの、F先生の奥方のご実家における武家門は立派です。谷山郷の上士とは格が違う。
Commented by gayacoffee at 2016-08-13 10:13
Ex-Tannyamanさん、ありがとうございます。
おっしゃるように、織豊を経て徳川の世になると治安維持のため身分固定、移動の制限などを厳しく設けたようで、後北条氏のころまでは足軽勢は百姓から臨時徴用したりして、戦も収穫期を避けるなど調整していますが、織田家の強さは将はもちろんのこと、兵も専門化、つまり侍として戦の訓練を積ませ、兵力の質・量ともに厚くしたそうです。信長は新規召抱えにも積極的で、いわゆる実力主義。ギャラが良かったため、織田家に仕えたいという者が多かったとなにかの本で読みました。
さて、江戸期は統治のため身分を固定するわけで、一部例外はあるものの、上級武士の子は上級武士、下級武士の子は下級武士、百姓の子は百姓のまま生涯を終えることになったことを思えば、気が遠くなりそうです。
なお、谷山五郎の話を持ち出したのは、潜在的に谷山ジゴロウには城下への反感、反発がずっとあり、それはいまでもあるということです。そのため、直轄地として大きな麓を置いたのだろうと。
私が中学のころ、八色書店に自転車で行く途中、ふらっと谷山小学校の周辺を走ると、立派な武家門のある家が3,4軒ありました。西南の役の際、谷山の麓も焼けている(被害規模は不明)そうですから、江戸期の建物が残っていないのかもしれません。高校時代の同期の実家が谷小のすぐ近くで、それはそれは大変な広さでした。上級郷士の家系でした。
by gayacoffee | 2009-09-28 23:47 | 谷山散策 | Comments(5)

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