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曇り空が夕方から本降りへ。夜焙煎とかき氷準備

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開店して間もなく雨粒が落ち始めたと思っていたら雨脚が強まり、ちょうど駐車場に入られたお客様が店内に掛け込んでこられました。
開店前から徐々に黒い雲が広がっていました(左写真=午後10時ごろ)。
「きょうは雨かしら」とお客様。
雨は止んで昼過ぎとなり、まだ曇ったままです。

きょうは連休明けのせいでしょうか、開店前からコーヒー豆のお客様のご来店、あるいは「11時ごろに取りにくるので準備をしておいてください」とのお電話が4件。ありがたいことです。店内飲食のお客様はぽつりぽつりとご来店くださっていますが、豆のお客様が比較的多い日です。

左上の写真を見て「変だな」とお感じになる方もおられるでしょう。当店が少し右に傾いているのです。
写真は、意図的に表現する場合をのぞき、「水平」が基本です。平坦な地面や海の水平線が斜めになっていると見る人の気持ちまで傾き、不安感、焦燥感、あるいは臨場感を抱きます。
私のデジカメは、水平を保てずにいます。この写真も液晶画面を見ながら建物が垂直になるよう十分に注意して撮影しました。にもかかわらず、斜め。
実は、3カ月ほど前からこの現象が気になっていました。
はじめは自分の撮影技術の稚拙さが原因だろうと思っていました。
以前使っていた35mmフィルムの一眼レフカメラはファインダーをのぞいたままほぼ撮れるため、さすがに傾くことはありませんでした。ずしっとした重量もあってシャッターを押すぐらいでカメラが揺れることもありませんでした。20年ほど扱ってきた商売道具です。いくら腕が落ちたとはいえ、水平をとれないほど衰えたのかな、とちょっと深刻な気分にもなりました。
いま使っているコンパクトデジカメで、十分すぎるほど水平、あるいは垂直のラインに注意しながらシャッターを押すようにしました。でも、やはり地面が水平にならず建物が傾くのです。
「ん~、おかしい! これは自分の腕のせいばかりではないんじゃないか?」
そう思い始めました。
試しに、液晶画面に表示された画像をわざと逆方向に傾けてシャッターを押すと、なんと水平になります。どうやらデジカメ内部のコンピューターかなにかが故障しているのでしょう。
きょうの空と店の写真も、逆方向へ少し傾けて、手作業で“補正”したのですが、まだ斜めですね。水平をとる塩梅が難しいのです。
不思議なものです。デジカメをアナログな方法で補正するとは。これによって、わがデジカメはアナログ化したわけです。

いま静かな店内です。
今夜焙煎予定のコーヒー生豆をハンドピックします。
きのうの定休日は結局、急ぎの焙煎の必要なしとの判断からハンドピックを途中で止め、居合の形稽古(自主トレ)を約1時間半行った後、店内の掃除に移り、日付が変わりました。そのため朝の焙煎はなし。その分を今夜焼きます。

追記】=午後8時1分
夕方から雨になりました。

今夜は少し忙しくなります。
コーヒー焙煎とかき氷メニューの準備があるからです。
きりのいいところで7月1日にかき氷メニューをスタート、とブログで告知しています。考えてみるとあすですね。今朝気が付きました。夏限定のメニュー表も準備しないといけません。

まずは焙煎のため生豆の水洗いをそろそろ始めます。

追記】=午後11時47分
焙煎を終え、閉店後の掃除も済ませました。今夜は3種類を焼きました。
●ブラジルNo.2(深煎り)
●グアテマラSHB(深煎り)
●コロンビア・スプレモ(深煎り)

きょうはコーヒー豆をお買い求めのお客様がいつもより続いたため、焙煎済みの豆の量が大分減りました。ありがたいことです。今夜の焙煎であすの分までは確保できました。

夕方、元同僚Sさんが来店してくれました。仕事で近くまで来たとのこと。
仕事中心の日々を送っているうちに感情の起伏を抑える習慣が身につきます。それはそれで“仕事人”としては望ましいのでしょうが、プライベートの時間まで感情を抑えるようになると人生の喜びまでも薄れがちになります。
私は疲労からくるうつで、無感動状態に陥りました。
Sさんも日ごろから仕事モードのタイプです。
Sさん「喜怒哀楽の起伏がないといけないかな、と最近思うようになって…」
「私もそう思いますよ。仕事のときは別としても、人生が楽しくない」
Sさん「悲しみ、怒りがあるということは反面で喜び、楽しみも大きく感じられるかなと」
「そうそう」
老いても恋する人はお元気です。
日本人は耐えることを美徳とし、感情を表に出さないよう歴史の中でしつけられてきました。
「男がむやみに笑うもんじゃない」などと子供のころ大人に言われたものです。特に薩摩のような武骨な気風の土地では一層でした。
ところが世界をみると、イスラム社会にせよヨーロッパでも中国や韓国、インドなどでも感情をあらわにやたらデモを起こし銃を発射する映像がニュースから流れます。すべてがニュース映像のような人々でないにせよ、日本人の“沈黙”は美徳を越し不思議でもあります。
東日本大震災の被災された方々の冷静さ、整然さは見事、とテレビを観て胸が締め付けられる一方で、東京電力福島第一原子力発電所の事故後の不手際に対する日本人の“沈黙”は一体何なのでしょう。
怒りをぶつけたところで何になろう、それよりもきょうの暮らしの糧、というわけでしょうか。
私は別に民衆のデモを煽ろうと主張しているわけではありません。忍耐と言うには違和感を覚える“沈黙”に、いまの日本の閉塞感を思うのです。閉塞はあきらめを生みます。
クソのような、あっ汚い言葉でした、訂正して、ウンチのような永田町に怒りの鉄槌を下したいと思いながらも、「どうせ」とあきらめ、行き場のない感情を封じ込める…そんな姿がみえるようです。
日本人が耐えることを美徳としたのはいつからでしょう。
不勉強ながら、私は海外から目をふさいだ江戸期ではないか、と想像します。
江戸幕府は、動くことより止まることで政権維持を図りました。基本的に領民が勝手に移住することを禁じ、他藩との交流も制限、武士は家督相続も結婚も居住も藩の許可、届けが必要でした。藩は幕府の許可なくしては身動きとれず、その思想的背景にあったのが朱子学です。
ところが、江戸直前の戦国期の日本人のなんと活発なこと。尾張の農民の子が天下人となり、堺では町人が自治町を構成、一向一揆が守護をつぶすほどのパワーをもっていました。
為政者にはこの民衆パワーが恐ろしかったことでしょう。そこで、互いに監視し合い、海外との交易も制限、原則禁止という「停止」した250年が生まれたと想像します。
二重鎖国の薩摩に至ってはより一層の「停止」ぶり。一向宗すら禁じました。

これが我慢、忍耐の正体ではないか、と私は考えます。
こう書きながらも耐え忍ぶ人に尊さを感じる私。心の中に、相反するものが存在します。
しかし、太平洋戦争敗戦時に匹敵する歴史的な転換期といういま、私たち日本人の“沈黙”は一体何なのでしょう。
リストラ、就職浪人を恐れ、屁のような(またも汚い表現で失礼)会社や組織にいつまで頭を下げ続ければいいのでしょう。
選挙しか頭にない政治家をいつまで国会に送り続けるのでしょう。
閉塞から解放されるために必要なことは素朴な感情表現ではないか、と思うのです。
私は、まず自分をうつから解放するため感情の人になろう、いや戻ろうと思います。

外は土砂降りが続いています。
梅雨明け早々の雨ですが、鹿児島県本土はあす午前中まで、種子島・屋久島地方は昼過ぎまで、奄美地方は夕方まで雨が残るとの予報です。夏本番はこの雨の後でしょうか。

さて、かき氷メニューに向けもう少し仕事をします。
Commented by 常連のNです at 2011-07-01 09:05 x
正直言って、そこまでしないと、鹿児島ではサラリーマンは勤まらないんですか?と思いました。
実際に仕事をこなすということとは、無関係なことでエネルギーを使いすぎていませんか。それで、実際の仕事の生産性は、極めて悪い、ろくに仕事をしていない、というのが、率直な私の鹿児島の人に対する印象です。
新幹線が全通して、ストロー効果などで、一旦は鹿児島の企業などは、衰退した方がいいように思います。極端に言えば、ですけど。新しい企業が興ってくるまで、ダメだとも思えます。100年かかっても、そうなるかどうかは、分かりませんが。
Commented by gayacoffee at 2011-07-01 13:43
常連のNさん、ありがとうございます。
鹿児島に限らず、いま民間企業はサービス残業は常識です。残業手当が出るところはまだまともな団体・会社でしょう。休日出勤しても振替休日をなかなか取れず、取ったとしても仕事がたまるため出社してしまう、会社も黙認します。「勝手に仕事をしているんだ」と。コスト削減で人減らしを行った上、派遣社員も減らしたりして正社員の負担が一層大きくなっていると思います。出版系・IT系などは労働基準法などあってないようなものです。
これは全国的にそうだと思いますね。
生産性の悪さというよりも人出が足らない、やることが多すぎる、終わらないから疲労がたまり生産性が悪くなるという悪循環もあるでしょうし。
Fさんのブログに「薩摩にサービス業は向かない?」というおもしろい実録記があります。
サービスの最上・極上を知らない(私も知っているわけではないけど)、何のためのサービスか考えず「やれ」と言われたからやっている、自分の稼ぎのためだけに働いている-こういうことが鹿児島に限らず田舎都市では体験できるものの、特に鹿児島は南方系のぶっきらぼうさがあるようで、都会人の持つ繊細さに決定的に欠けますね。
Commented by 常連のNです at 2011-07-01 14:11 x
サービス残業の辛さは、まだ仕方ないとして、何か、「自分というものを持ってはいけない」というところまで、踏み込んでいるところまでが異常に感じます。
 仕事は仕事という割り切りがないんですかね。仕事は、できる人が評価されて、時折、政治的に動く人がいて歪むことも多々あるけど、結局、前者の合理性が働かない組織ほど、弱くなる、いずれ潰れるというのが、私が関西で見たり、感じたりしてきた上での、信念というか、思いですけどね。
 そのあたりが経済合理性が強く働く都会と、言っては悪いですが、封建的なものが色濃く残るところの違いだとは、強く普段から感じています。
Commented by gayacoffee at 2011-07-01 21:46
常連のNさん、ありがとうございます。
薄氷の上を歩いているのに、現状なんとか食えている、という変な安心感、いや緩みがあるのではないでしょうか。そんな環境に長くいると、仕事への緊張感もなくなるでしょう。
お上(かみ)が強い風土は、基本的に自由競争のない歴史の延長上にあるため、ハングリーでもないし、本来自由であるはずの民間企業が困ったらすぐにお上に「お願げえしますだ~」とすがるし、お上も口を出したがり、悪しき慣習として天下りという慣れ合いが続いています。
東日本大震災で強く感じたのは、閉塞した日本社会であり、打つ手を持たないおエライさんたちのぶざまさです。
一度ぶちこわさないと日本は本当に力を失いますね。
薩摩などは、イオンが来て、新幹線が来ても、税金を使って採算の取れそうもないシネマビルを作ろうという発想しか浮かばないほど沈滞しています。あえて天文館のために提言するなら、一度天文館はつぶれるべきでしょう。その中から出てくる新しい芽に次の時代を拓く可能性があるはず。なのにおエライさんたちは既得権益を守るため、税金に頼るのですね。
どうしようもない話です。話が少し反れました。
by gayacoffee | 2011-06-30 15:10 | 焙煎人日記 | Comments(4)

鹿児島発! 生豆を水洗いする自家焙煎コーヒー店の日記


by gayacoffee