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木下藤吉郎の「墨俣一夜城」は虚構だった!

墨俣城は、のちに太閤秀吉となる木下藤吉郎が、主君織田信長の美濃攻めの際、一夜で築いたとされる有名な城です。蜂須賀小六ら近郷の土豪を集め、長良川の上流で木組みを整えた木材を流し、夜の間に墨俣で組み立て城を築くという話です。
ところが、どうもこの話はフィクションだというのです。
通説では永禄9年(1566年)9月に秀吉が墨俣城を築き、信長勢が稲葉山城を攻めたことになっています。
各地の城を踏破している管理人によるホームページ「古城探訪」によると、次の通りです。

信長の時歴に関して最も信頼できる資料と考えられる太田牛一の「信長公記」には、このような記述は一切なく、「洲俣御要害丈夫に仰付けられ、御居陣候」「洲俣御引払いなされ」などといった文言が日付とともに記述されているにすぎません。年記に関しての記述もないようです。ましてや秀吉などといった名前など一切出てきません。
藤本正行氏は「信長の戦国軍事学 戦術家・織田信長の実像」の中で大変興味深いことを述べられています。
「永禄9年(1566)9月に秀吉が墨俣城を築いたという史実は明治期に完成された」というのです。


同ホームページの管理人はさらに次のように紹介しています。長い引用です。

史実ができあがるまでの流れを簡単に触れてみましょう。
小瀬甫庵という人物がいます。「太閤記」の著者として有名です。
甫庵はまず太田牛一の「信長公記」を下敷きに「甫庵信長記」を執筆します。この書は全体の分量が「信長公記」の数倍に達するといいます。
この改変では、「信長の墨俣築城は永禄5年5月のこと」とされました。
その後、甫庵は「太閤記」を執筆します。
ここで甫庵は、「永禄9年(1566)9月に信長が美濃のどこかに城を築き秀吉を城主にした」という話を載せます。
ところが江戸中期の貞享2年(1685)頃に、遠山信春という人が「総見記」を執筆した際、「信長公記」・「甫庵信長記」などの記事を混ぜ合わせたため、「永禄5年5月に、信長が墨俣に築城して秀吉を城主にした」という話に発展します。
さらに江戸後期に竹内鶴斎という作家が甫庵の「太閤記」をおもな典拠として「絵本太閤記」を執筆した際、従来は単なる城主に過ぎなかった秀吉を墨俣の築城者として話の中心に据え、佐久間・柴田の2人の重臣を引き立て役に配したわけです。しかも秀吉が奇計をもって一夜で城を築いたように見せかけるという筋立てにしたため、以後墨俣城は一夜城と呼ばれるようになります。
この話は、栗原柳庵が編纂した「真書太閤記」に再録されたため、さらに有名になり、そのまま史実として明治の史学界に引き継がれたというのです。
したがって明治の中期までは、「秀吉の墨俣築城は永禄5年である」ということになっていました。
しかし、高名な歴史家であった渡辺世祐氏が明治40年(1907)に著した「安土桃山時代史」の中で、「今太閤記、秀吉譜に考へ墨股築砦を永禄9年9月となし在来の諸説を排せり」としました。
このようにして、「秀吉の墨俣築城は永禄9年(1566)9月である」という通説が完成したわけです。


なんと一夜城の逸話は作られたわけです。それも明治期に。あの秀吉の墨俣一夜城が虚構だったとは、驚く話です。
現在、墨俣城の跡とされる場所には立派な天守が建っているそうです。厳密には天守ではなく、近年に造られたコンクリート造の歴史資料館らしいのですが、そもそも一夜城なので、せいぜい臨時的な砦レベルだったでしょう。当然、天守はなかったはず。
時の権力者による意図的な歴史の改ざん、わい曲は鹿児島でもあるものの、こうした悪意なき歴史の改ざんにも困ったものです。
by gayacoffee | 2012-02-06 23:01 | ガヤマスのつぶやき | Comments(0)

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