店先で並んで咲くオキザリスを眺めて思うこと… |


「小春日和」と、ここ何日もブログの見出しで使っていますが、きょうはその表現がぴったりです。風もなく、日はほかほかと柔らかく、日差しを浴びながら、「ああ、このままぽっくり逝くのが幸せかも」などと思います。
「まだ早いよ、そんなことを考えるのは」と、年上の方や知人には言われますが、うつ発症後に心身の衰えを強く感じたころから「自分もいつか死ぬんだなあ」と、ごく当たり前のことを実感しました。生きとし生けるものが死を免れないことは知識として知っていても、またそれをテーマにした小説など読んできても、どこか現実味がありませんでした。
もし存在するとすれば、「あの世」は、すぐ自分の隣の部屋にあるような気がしています。物質の部屋(世界)から席を立つようなものではないか、と。まったくそんな勉強をしたわけでもないので、書いていて支離滅裂と思いつつも、死ぬこと、その前段階の老い、そして病もごく自然であり、店先でカタバミ科オキザリスが花を咲かせる(右上写真)ようにごくごく日常の風景でしょう。
近ごろのテレビでは、アンチエイジングとか5歳若返る的な健康・美容食品、器具のCMがこれでもか、これでもか、と老いをいけないこと、悪いこと、醜として脅してきます。健康でありたい、というのは確かに人の本性のようなもので、それも自然な欲求でしょう。が、健康を過度に目指すあまり、大自然の流れに反する価値がはびこる社会は、老いた人、病に伏せる人、死を間近にした人から目をそむけることにつながりはしないか、と心配します。スピードの速い時代にあって、「健康であるうちは戦力として使う」という経営者・企業幹部の声を聞いたことがあります。離脱者は放置あるいは切り捨てとなるでしょう。
一体、私たちは集団を構成して何を求めるのでしょう。一部の人の欲を満たすために多くの人が我慢、それも心身を削ってまで奉仕するのでしょうか。一体、その我慢はしなくてはいけないものなのでしょうか。
「死」を思うとき「生」を感じます。
もちろん、努力して健康を維持する人はえらいでしょう。でも、体は人それぞれ。持って生まれた身体機能の違いもありますし、突然に思ってもみない病に見舞われることもあるでしょう。
こうして、穏やかな秋の日を浴びていると、自然の大きな恵みを感じます。
夜眠れないだの、腰が痛いだの、頭痛がするだのと日々ブログでぶちぶちとつづる私などがこんなことを書くのは誠に恥ずかしいことですが、流れに身を任せられるほどの人になりたいものだと思って書きました。
「小春日に 並んで立つか オキザリス」
またも駄句でした。
【追記】=午後9時29分
静かな夜でした。
こんやはそれほど冷えません。あすの鹿児島市は夕方から雨、あさって日曜は昼ごろまで、ところにより強い雨となると、テレビの天気予報が伝えていました。来週はじめから冷えるようです。
閉店後の掃除を急ぎます。
ゆうべは、睡眠薬を飲んだ後、ウイスキーをひっかけたところ途中から意識がなくなりました。電灯もDVDも朝までそのまんまでした。アルコールと睡眠薬を一緒に飲むと「ヤバい」と聞いたことがあります。意識がなくなるのが不気味です。
こんやは薬だけ飲んで休みます。