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「あさって」の翌日は「ささって」? 「しあさって」でしょう?

妻のいとこがお昼に来店、なにかの話をしていて、そのいとこが「ささって、〇〇〇をしてや~」などと妻に語りかけました。妻も、そのいとこも種子島の出身です。
妻が、「『ささって』? そんたあ、種子島弁やろ~、オゼ」と指摘しました。
「オゼ」は漢字で書くと、「御前」。「あなた」の尊敬語です。
いとこ「はあ~? 『ささって』がか~? 知らんかったなあ~。いままでずっ~と使こうてきたやあ~」

同島は、鹿児島弁(薩摩・大隅でおおむね使われる方言)とまったく異なるイントネーションを持ち、九州北部から長崎・五島あたりにかなり近いようです。単語も、例えば「バッテン」を使います。「しかし」「でも」という、前文を否定する接続詞で、これも九州中部以北の地域と共通します。私の“母国語”である鹿児島弁では「ジャッドン」です。種子島弁は鹿児島弁に比べ柔らかです。
私の想像ですが、種子島は大隅半島の真南、黒潮と親潮の分岐点に位置するため、古来、海の要所とされたはずです。南島ルートの遣唐使が寄港地ともされ、江戸期に海路が幕府によって様々な規制を受け不自由になる以前の中世には、島主・種子島氏が黒潮を使って京に上ったとの記録が残るそうですし、漂着した中国船に乗っていたポルトガル人によってもたらされた火縄銃を翌年には国産化できる高度な技術者(刀鍛冶ほか)が常住していたことも、種子島を考える上で重要でしょう。古くから“海人”の泊として栄えたとみるのが自然です。江戸期は幕末までほぼ種子島氏の領地であり続けました。そこに、“薩摩”と異なる独自の文化が育ち、保たれた理由があるとみるべきでしょう。戦国以降、島津氏の直轄地となった屋久島は鹿児島弁なのです。

話を戻します。
いとこが言うには、「あした」「あさって」「ささって」「しあさって」だと。種子島では確かに、「あさって」の翌日を「ささって」といいます。
妻はいとこに、「しあさって」を種子島では「ささって」と言うと指摘します。両者の言は同じ種子島生まれ・育ちなのに異なります。

果たして、「ささって」なる言葉がほかの土地にあるのか、使い方はどうかなど、ネットで調べてみました。
結論から言うと、ありました。
富山、飛騨、三重の方言で「ささって」があるようです。
しかも、飛騨方言では「あさって」の翌日を「ささって」と言うようです。
つまり、次の通りです。
あした(明日)→あさって(明後日)→ささって(再明後日)→しあさって(四明後日)
また、のちに入ってきた「しあさって」が「ささって」と入れ替わった土地もあるようです。
つまり次の通りです。
あした(明日)→あさって(明後日)→ささって=しあさって(再明後日)

以上から、「ささって」は妻の言もいとこの言も「正解」ということです。
また、種子島以外でも使われており、不思議なことに地理的に遠い地域と共通していることを知りました。

訂正】=5日午後7時23分
この記事を読んだ妻から異議が出ました。「私も『あした』『あさって』『ささって』『しあさって』だ」と。
妻が短大を過ごした北九州で友人から「なに? 『ささって』?」と言われ、初めて「ささって」が方言であると知り、「『あさって』の次は(標準語では)『しあさって』だよ」と指摘されたそうです。
つまり、種子島弁の「ささって」の使い方は、妻もいとこも同じだった、ということです。

前述の「両者の言は同じ種子島生まれ・育ちなのに異なります」と「『ささって』は妻の言もいとこの言も『正解』ということです」を削除します(下線部)。
Commented by 齊藤 at 2013-08-08 11:16 x
屋久島の方言も、鹿児島弁とはだいぶことなります。鹿児島弁よりも優しく分かりやすいですが、語尾に鹿児島弁ではない言葉がつきます。また、集落ごとに言葉やなまりに違いがあります。屋久島は種子島氏の領地でしたが、種子島からの移住者のほかに、長崎や高知、鹿児島などいろいろな地域から移住してきて集落を形成しました。なので言葉に違いがあるのです。移住者が増えたのは江戸後期からのようです。
Commented by gayacoffee at 2013-08-08 16:51
齊藤さん、ありがとうございます。
以前、何回か屋久島に行って、宮之浦でも安房でも鹿児島弁のイントネーションだったのでてっきり私は、屋久島は薩摩弁の圏内と思っていました。種子島と同様に様々な地方から船に乗って往来する人々がいて、移住もあり、長居もあったでしょう。そんな歴史を経ての屋久島の方言があって当たり前ですね。
ぜひ、いろいろ教えてください。
ちなみに、種子島は2万年前の集落跡が遺跡として残っていたり、「御田植祭」という赤米を植える行事が宇宙センターのすぐそばの集落に伝わっています。弥生期の鉄の釣針が複数本出土しているほか、広田遺跡では有名な「山」の字の貝符が出ています。また、中世では平安期の鏡、常滑焼、そして鉄砲伝来があり、県内では珍しく法華宗です。山城も結構残っています。江戸期以降は、麓集落的なものがあり、薩摩圏となっています。
Commented by 齊藤 at 2013-08-08 17:53 x
今日はありがとうございました、とてもおいしかったです。
屋久島は、元々山深い島でしたので、宗教的には原始的な山岳信仰でした。
仏教の伝来は、鑑真和上が南九州に来てからで、後に律宗が広まりました。
種子島家も律宗でしたが、室町時代に、島主の息子が律宗修行のため奈良を訪れた帰り、堺港で出会った法華宗の信者に律宗はもう時代遅れだと馬鹿にされ憤慨し、法華宗の僧侶と討論したのですが、負けてしまいました。
そのまま、尼崎 本興寺の日隆という高名な僧の弟子になり、日典という僧名で10数年寺に留まり修行しました。
後に布教のため種子島へ帰るのですが、島主の意向を無視した行動と、修行に同行した律宗僧侶の兄に恨まれ、法華経布教のために孤軍奮闘しましたが、島主にやっと思いが伝わるところで、兄とその信者によって、浜に埋められ、石子詰めにされて命を落としてしまいました。
命を落とした浜には「日典(にってん)ヶ浜」という名が付けられ、石碑も立っています。
明治になってから浄土真宗が入ってきて、いまはこの二宗が主な仏教として広まっています。
Commented by gayacoffee at 2013-08-08 19:33
齊藤さん、ありがとうございます。
日典上人遭難の地は海辺にあります。西之表市の中心地・赤尾木の大きな入り江の南側、塰泊(あまどまり)に近い、城ケ浜にぽつんと建っています。近くに、日典寺という法華宗の寺があります。
ちなみに、塰泊は古い貿易港だったようで、いまでは小さな河口がその役割だったのでしょう、一帯の海中に、白磁・青磁などのかけらが散乱していました。20年以上前の話ですが。
by gayacoffee | 2013-08-04 12:31 | ガヤマスのつぶやき | Comments(4)

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