県構想の「スーパーアリーナ」で鹿児島市議会が要請~MBCホームページから
2015年 05月 14日
県の「スーパーアリーナ」構想については一昨年、伊藤県知事が鹿児島市の鹿児島本港区・ドルフィンポートの敷地に体育館機能を持つ複合施設を整備する計画を公表。県民から反対の署名運動が広がるなどし、その後、伊藤知事は計画を再検討する考えを表明しました。
ブログで何度か書いていますが、県内に一部公式競技が開催できる屋内体育館がないなどのスポーツ関係者の声もあることから、こうした施設の必要性について私もなんら異議を唱えるものではありません。
問題は建設地です。桜島を望む絶好の地に、スーパーアリーナを造るという伊藤知事の発想に反対します。繁華街と桜島を遮断するかのような大型施設を建設するのは、港町の風情を台無しにすると言ってよいでしょう。
また、「県庁舎から桜島が見えなくなる」との理由で、以前、庁舎近くの土地を県の予算で購入したのはほかならぬ伊藤知事ご本人でした。このときの行動と矛盾するではありませんか。ご自分は庁舎から雄大な桜島を眺めつつ、鹿児島市街地で最も桜島を眺望できる地(=観光面でも貴重な財産)に“ドン亀”あるいは“ワニガメ”※のごとき施設を構想するのはどう考えてもおかしい、と私は思います。桜島が泣きますよ※。
大型施設を鹿児島市中心地に造るコストも問題です。交通面での障害、防災面での課題も予想されます。駐車場スペースを確保できるのか、も疑問です。
県の「スーパーアリーナ構想の公表により、鹿児島市は長期にわたり検討していた鹿児島本港区への市電路線の延伸計画を中断しました。この空白は、県民の利便性、観光面からみて大きな損失です。
一方で、ドルフィンポート周辺の活性化につながるとして、商店街などの待望論も呼び起こしてしまいました。
伊藤知事がスーパーアリーナ構想を公表した背景には、2020年に鹿児島で開かれる予定の国民体育大会に間に合わせようとの理由もあったように記憶しています。ドルフィンポートの土地が県有地で、用地買収の手間がはぶけるからでした。が、県民の反対で「再検討」とし、国体まで4年半となりました。構想に1年、基本・実施設計を急いで1年、埋立地ということで基礎工事に1年、建築工事に1年で計4年。ぎりぎり。そのタイミングでの市議会の動き…?
ともあれ、スーパーアリーナ構想について、伊藤知事はドルフィンポートの地の可能性の有無だけは早期に答える必要があるでしょう。
※注:「ドン亀」「ワニガメ」は、伊藤知事がかつて埼玉で携わったさいたまスーパーアリーナの写真から思いついたもの(埼玉の人には失礼ながら、美しいデザインとは思えません)。また「桜島が泣く」も私の思い入れで、正確には「そんな景色の中に桜島が置かれると私が泣く」です。
谷山小学校出身の代議士であった宮崎茂一も、関係のない錫山近辺に胸像を建てているようですね。谷山全体をぐちゃぐちゃにした張本人なのに。
伊藤知事、池畑憲一県議会議長ら12人もの団体でドイツ・ボンに行っておられるようそうです。MBCは、政府代表団の一員として世界遺産委員会に出席、と伝えていました。明治政府のニュースかと思うほど。「明治日本の産業革命遺産」の世界文化遺産への登録ですから、“県令”として明治政府の使節団という心意気なんでしょう。長州からも行っているのでしょう。
ひねくれ者の私は、別に磯集成館などが世界文化遺産になろうがなるまいが、歴史的価値はそもそもあって、それをまず私たち一人ひとりが自覚し大切にすることが重要ではないかと思っています。そのわりに鹿児島は歴史を大事にしていないんじゃないかと。ちょっと前のものをどんどん壊します。
オリンピックにしろ、ワールドカップにしろ、ん~、なんだかなあという気がしますね。JUDOなんて止めてしまえばいいのにと。武道としての講道館柔道なり、さらに江戸期まであった柔術、体術を日本が再構築していいんじゃないでしょうかね。
調和は必要ですが、追随はどうでしょうかね。むしろ創造の時代じゃないか、と。銅像じゃなく、です。
宮崎茂一さんっていう名前を久しぶりに聞きました。
> ちょっと前のものをどんどん壊します。
廃仏毀釈における鹿児島の人間だけでなく、太平洋戦争の時代も含めていつも日本人全体が、朝鮮半島の人間と同様に、超が付くほどにヒステリックなんだと思っています。
イスラミックステートなどを笑っておれない。
国やら県やらが指定したから大事にするということは、主体性のなさを意味します。その証拠に、きのうまで拝んでいた仏を叩き壊し焼いた廃仏毀釈ですね。ひどい。旧薩摩藩領で無事だったのは1寺のみだったそうです。ほかは全滅です。仁王さんも胴体、頭、手足ばらばらです。太平洋戦争直前、政党が解体され大政翼賛会公認・非公認の候補者が立候補した、いわゆる翼賛選挙では翼賛会の妨害が公然と行われたワースト1が鹿児島だったそうで、ある意味で日本人の極みか。
そんなエキセントリックな県民性の一方で、戦国期に島津氏が戦で死んだ者を敵味方ともに弔う供養塔を建立したという慈悲深さ、薩英戦争後に「オイタッモキバッタドン、アンシ(イギリス)モキバッタ」と留学生を英国に派遣する思考の柔らかさもあるという不思議さです。
どちらもあるんでしょうね。