もわーっとした晴天が続きます。少々二日酔いの朝でした
2017年 06月 19日
もわーっとした晴天が続く鹿児島市です(上写真=午前10時55分ごろ、当店前を通過中のJR指宿枕崎線・上り普通列車。坂之上駅を発車し鹿児島中央駅方向へ)。
けさはちょっと二日酔いの中、開店前のコーヒー焙煎を4種類。頭痛とか気分が悪いとかではなく、まだ酔いがわずかに残っている感じでした。焙煎を進めているうちに酔いは消えていきました。
●グアテマラSHB(深煎り)
●ブラジルNo.2(深煎り)
●ペルー・モンテアルトJASオーガニック=有機栽培豆=インカの香り(深煎り)
●エチオピア・モカ・イリガチェフG2(深煎り)
最近というか、先月あたりから、寝酒をやるようになりました。「ダレヤメ」(鹿児島弁=晩酌)ではありません。なにせ閉店後の片付け・掃除、翌日の準備などひととおり終わるのが毎晩11時半を回りますから、テレビを観ながら刺し身を肴にゆったりという、いわゆる晩酌ではないのです。
閉店後の掃除を終えるころ、自室からウイスキーのボトルを店に持ち込み、ロックで飲みます。朝のコーヒー焙煎から、途中1時間ほどの休憩、または買出しのほかはほぼ店に入りっぱなしゆえ、夜10時を回ると労働意欲が失せてきます。しかも夕方に長時間タイプの入眠剤を1錠、閉店時に精神安定剤を2錠飲んでいますから、もうひと仕事残っている場合には、「疲れた」「休みたいよ~」という感情を一時的にマヒさせなければいけません。夜中にコーヒー生豆のハンドピックをする必要がどうしても起こります。忙しい(当店にしては)日が続くと、アルコールの勢いが欲しくなるわけです。「ダレヤメ」ではなく「ダレマヒ」の酒です。
入眠剤+安定剤にアルコール、というのは禁じ手でしょうね。人によっては入眠剤が効かなくなることもあるとか、または記憶が吹っ飛ぶなどの副作用もあるとか聞いたことがあります。
※右写真=コンビニでよく買っているのがニッカウイスキー「ブラックニッカ」。私はビール、焼酎が苦手
以前、寝酒についてかかりつけの心療内科クリニックの院長に尋ねたことがあります。いちばんの問題はアルコール依存症になる可能性だそうです。薬+アルコールで眠る習慣ができるとアルコールなしにやっていけなくなる、と。それにアルコールは深い眠りを妨げるそうで、院長から寝酒はできれば避け、飲むとしてもほんの少量で、とアドバイスされました。
そんなことを承知の上で、それでも酒の勢いを選んでしまう昨今。ゆうべは少し過ごしてしまいました。
【追記】=午後8時40分
きょうの営業もあと20分となりました。
夕方、いつも日中に来られるお客様がご来店。
「何度か来たけど、昼間、駐車場が空いていなくてね。やっぱりテレビに出たからお客さんが増えたんでしょう?」
地元民放・南日本放送(MBC)の情報番組「てゲてゲ」で紹介されて以降、特に日中の女性のお客様が増えています。ありがとうございます。きょうも昼ごろ駐車スペースが不足し、店横の通路に縦列駐車をお願いしました。わざわざ来てくださったお客様の期待に応えられたか不明ですが、ばたばたしつつも精一杯対応しているつもり。それでも心配りが不足することもあるでしょう。
よく尋ねられるのが「土器を拾っているんですね」。この話になるとつい熱を帯びてしゃべってしまい、あとから反省します。番組では成川式の土器(古墳期ごろ)を取り出している映像が流れましたが、実のところ、私が取材時に強調したかったのは、草野貝塚(縄文後期)が近くにあり、弥生遺跡も坂之上にあり、そして古墳~奈良の成川式が古い集落周辺にごろごろころがっていて、さらにずっと探していた中国の磁器(青磁片3個)をようやく発見したという歴史の連続性でした。青磁片は中国でいう「宋」「元」のころ、日本では平安、鎌倉にあたります。古代ばかりか中世の生活の痕跡を確認したわけです。
なぜ、水の便の悪い坂之上台地に縄文からだと何千年、古墳期からとしても1500年もの間、人が住んできたのか、これが大きな疑問なのです。きっと理由があるはず。私自身のアイデンティティに直結する課題です。
昼、Rさんが来店。歴史に詳しいRさんに鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府の違いなど尋ねました。同じ「征夷大将軍」を朝廷に任じられながら、政治体制などは大きく異なるようです。そもそも、平安期のお公家さん中心の政治から鎌倉の武家政治へ転換できたのは大変不思議です。革命と言って良いほど。Rさんが頼朝や執権・北条氏の狙いなど私見を交えて解説してくださいました。かなり腑に落ちました。
次の疑問。なぜ明智光秀は信長を討つという、“主殺し”をやってしまったか。下克上のあった戦国期とはいえ、大義がなければ勝算なしのはず。見誤ったのか、と。室町という時代をもっと学ぶ必要を感じました。ちなみに、義昭が将軍職から降りたのは秀吉が関白に任ぜられ
MBCのホームページによると、鹿児島市はあすから雨が戻ってくる予想です。いよいよ梅雨の本番に入るのでしょうか。
失礼しました。正確な情報に感謝いたします。本文中でも訂正しておきます。
「応仁の乱」は新書で1000円なのでちと痛いですよね。中身が濃く、まだ半分しか読み進んでいません。別に複数の本を同時並行で読む癖があるためでもあります。
標高を利して農閑期の地域防衛を図った時代、坂の上は、そのまま利用可能だったのでしょうね。地形に対して集落が偏在していることを書いていらっしゃいますので、きっと真中に何か重大なものが、と夢想しています。城郭と異なり砦には、地域住民を収容する地積がなければなりません。西欧のポリス的な役割。その役目も果たしている地形だったのでしょう。
あれこれ砦を訪ねると、水場の貧相なことに戸惑います。ちょろちょろ程度の湧き水である場合が多いのです。籠城戦でも、その程度で良いのでしょう。急峻な日当山城に地域住民が籠り、わずかな湧き水で耐えた、という想像が、最も壮絶な見分でした。
坂の上から、古銭の検出はないのでしょうか。青磁があるなら古銭も、と期待してしまいます。まさか経筒までは、でも、出たら大騒ぎですよね。
かつて伊豆大島で話したおばあちゃん。フロッグマンのジイちゃんが港湾整備で潜ったら、不思議なことに中国の古銭がたんとあった、と。ばあちゃんそりゃ、日本じゃほとんど銭を鋳造せんかったから、支那の銭であたりまえ、それよか沈んだ船全体を気にせえよ、と言っておきました。
国分・上野原遺跡も急峻な丘の上にありますね。おそらく縄文の海進が影響していると想像します。
坂之上台地の古い集落、狭義の「坂之上」(古い集落名)は標高約40~50mです。有名な草野貝塚(縄文後期)は「光山」という、より海に近い、海を見下ろす丘の上にありますが、「坂之上」は1km以上内陸です。海に下りるなら現在の国道225号を越えてまだ一段上り、さらに下るという感じ。225号とJR線が坂之上台地のいちばん低い、それこそ帯状の低地を走っているのです。海に一筋の丘陵があり、帯状低地から山側に再び標高が徐々に高くなっていくという地形で、その北端に「坂之上」集落がありました。
知人が、「坂之上」の端っこで縄文土器を拾っています。
問題は古い集落を除き耕地整理が行われたため昭和30年代以前と地形、道路も様変わりしている点です。表層をはいだおかげで土器片が表に出たのでしょう。
青磁片は古い集落内で10年にしてようやく見つけました。以前、鉄器片らしきもの(刀剣でしょう)を見つけました。家に置いていたら薄くはげて粉々になりました。もったいないことをしました。折り返し鍛錬の鉄の層ではげたのでしょう。時代は不明です。
弥生の高地性集落と中世山城跡が重なるともいわれます。なにか、戦乱を避けるために小高い場所に住み、そのまま住み続けたのかと妄想もします。