昔、「ルーツ」という映画(?)がありました。
黒人奴隷としてアメリカに強制連行された子孫(小説の著者)が、自分のルーツを求めてアフリカに行き、祖先の地にめぐり合うという感動の物語だったと記憶しています。
何百年も昔のことを、なにも探さなくとも日々の暮らしに影響はないでしょう。しかも多額の資金を投じて。著者は小説家なので報酬は後日受け取れる立場にあったかもしれませんけど。
しかし、自分のルーツを知りたい、と思う人は少なくありません。
地元紙・南日本新聞にもときどき、「〇〇氏の子孫らが先祖の墓参り」などという記事が出ます。以前、「そもそも先祖は桓武天皇から始まる平家の分流〇〇氏の、その分れで〇〇氏から…」と家系図を広げて見せてくださった方の誇らしげな表情がとても印象的でした。ただ水を差すようですが、家系図の多くは江戸時代に系図を作ってくれる商売もあったほどで、いわゆる「名門」の多くは室町末期・戦国時代までにほろんでいきます。
大層なご先祖さんを持たない私も、自分とは何者なにか、積極的ではないにせよ探している一人です。
「一体自分は何者なのか」との問いかけが、綿々と綴られた「家」「血」の歴史へも向いていくのはごく自然なことでしょう。
坂之上は高台にあるせいで、水の便が悪く、米もとれず、住民の大半を占めていた農家の多くは貧しかったようです。父が子供のころまで、高低差50mほど曲がりくねった坂道を下っては上りして水汲みをするのが、子供の日課だったといいます。
坂之上に水道が敷設されたのは戦後しばらくしてからのこと。地元の住民、若者らが孟宗竹で作った管を、水源から何キロも引いて作ったそうです。その後、鹿児島市が上水道施設を整備し、いまでは当たり前のように豊かに水を使っています。この話は後日紹介します。
そういう歴史と土地柄だけに、地元の人々には「不便な土地に生まれた」との劣等感のようなものがあったように感じます。自分を卑下する心は、自宅周辺にある「史跡」に目を向ける余裕も生みません。現に、最近坂之上一帯で行われた公共下水道工事の際、実家のそばで、「おもしろい形の石が(地下から)出てきたが、工事の人が『調査が行われると工事が遅れるので』と持っていってしまった」という話を後日聞きました。明らかに法律違反です。これが文化財保護の実態ですよ、鹿児島市役所の皆さん!
一部の郷土史家が足を使って資料収集などされ実績を残しておられますが、坂之上は系統付けられた学問的な研究がなされていない地域と言ってよいでしょう。
「谷山市史」でも多くが、「麓」(江戸時代に島津藩が敷いた外城制度による武家集落。比較的高禄の郷士が住んだ)の歴史にページをさいています。農村、漁村は調べようにも公式の資料が伝わっていないせいもあるでしょう。
長い長い前置きになりました。
私の長年の疑問は、自分の姓がそのまま付いている祠「〇〇大明神」(地元では「デメジンサア」と呼ぶ)が、実家から50mほどの場所、古い集落のエリアに照らすと南端にあることです。現在は道路拡張などで個人宅の敷地内にありますが、私が子供のころ(昭和40年前後)は、狭い農道から約1m高い、幅の広い土手の上にありました。祠の周りには敷石があって、女の子たちがままごと遊びをしていました。
父や叔母の話では、かつては祠は立派で、もっと広い敷地があったそうです。
「谷山市史」の神社の項に、その「大明神」も記載されています。年1回、この神社で餅かなにかを作って、和田の海に浮かんでいた「七ツ島」のいちばん大きな島(というより大きな岩)の頂上にある祠に供える儀式を行っていたともあります。
「七ツ島」はいまでは埋め立てられ祠のある島が、産業道路の脇にぽつんと、ひからびたようにあるだけですが、この一帯はかつて風光明媚で、よい漁場でもありました。
特筆すべきは、南北朝時代、後醍醐天皇の皇子・懐良親王が南朝側の武将・谷山氏を頼って薩摩に入った場所が、「七ツ島」近くの久津輪崎です。
江戸時代以前に、紀伊半島、熊野大権現から分祀した神社「伊佐智佐神社」がそばにあり、古くから久津輪崎で祭事を行う「浜下り」の儀式が続いてきました(昨年30年ぶりに地元有志の尽力で「浜下り」が復活)。
「伊佐智佐神社」は格式があり谷山郷の郷社でした。私の実家のそばにある「大明神」もここの分社のひとつのようです。
さらに不思議なのは、紀州和歌山にある神社に、これまた私の姓と同じ神社(祠?)があることです。インターネットで偶然知りました。ここは、紀貫之なども流れをくむ、紀伊国造・紀氏の先祖を祭る場所、と説明文にあります。
古来、薩摩は修験道が盛んです。NHK大河ドラマ「篤姫」でも出てきたお由羅騒動の「呪詛(じゅそ)」は修験道がらみですから、幕末まで薩摩には修験道が盛んだったのです。その「本山」が熊野です。また、奥州(東北)月山で鍛えられた日本刀の地肌「綾杉肌」が、遠く南の薩摩・波平刀の地肌にも現れることから、両者に関係する修験道が関与した、とされます。
実家周辺では、土器が畑に散らばるように出てきます。成川式土器、土師器が大半で、若干の須恵器片も確認、縄文・弥生土器も出土するとか。多くの土器の様式から古墳から奈良時代のものが主流だそうです。
鹿児島市が史跡と指定も確認もしていない五輪塔群や、以前訪れた歴史家の先生曰く「戦国時代の墓」などもあります。住宅の一角になぜか立派な狛犬も鎮座しています。
さらに、実家周辺の道路(車1台通る程度)の交差点のほとんどがT字です。これは敵からの防御を考えた構造で、「麓」にも取り入れられています。坂之上の集落は、ある時代になんらかの理由で、臨戦態勢にあったのではないか、と想像されます。
鹿児島の歴史は、島津氏(日新斎の家系)が戦国以降、勢力を拡大する過程で、独特の「島津史観」で塗り込まれてしまいました。その中で、敵対する勢力は「悪」とされ、また矮小化され、また隠滅されたと推測されます。歴史は「勝者」が作るからです。
ただ、私にとって「島津史観」などどうでもいいことです。島津家への恩義はありませんので。
なにより、熊野と南朝、南朝の皇子と薩摩(谷山)、熊野と修験道、熊野と薩摩、そして坂之上の「大明神」・私の姓と熊野・紀州。もっというなら、隼人と熊野…そうです、「神話」を知る人なら、「エッ?」と思うでしょう。
まったく学問的な裏づけのない話ではありますが、これらに遠大なロマンを感じるのです。
こうやって妄想にも近い自分探し・地域探しをしていくその先にあるものは、実は見えています。
ご先祖様への感謝です。
例え、先祖に歴史教科書に名が載るような人物がいなくとも、こうやって何千年も「血」が続き、私、そして子供へと伝わることのありがたさこそ、噛み締めたいのです。