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私は色弱です

「色盲・色弱不可」
大学4年の夏前、各社から送られた求人票が学校の就職課に張り出されていました。そして、この言葉が書かれている企業の中に、当時入社したいと希望していた出版社もありました。

私は色弱です。
程度で言えばもっとも軽い色弱ですが、色弱は色弱です。ほとんどの色は単体でなら判別できますが、たとえば青々と木の茂った山なみの中に、ポツンと小さく赤く色づいたカエデが1本あったとします。私には、周囲の緑が影響して小さな赤色が見えないのです。

出版社はカラーページがあります。印刷の色は、4色(青・赤・黄・黒)それぞれのパーセントの組み合わせで刷られます。印刷物をルーペで拡大して見ると分かる通り、小さな点々の集まりです。当店「gaya」のロゴ色は青100%、赤90%の掛け合わせです。2つの色が100%と90%の網点で重なり合って刷られ、ネービーブルーになるのです。

カラーを多用する出版社で、色が明確に判断できない者は、いまはどうか知りませんが、20数年前の当時は入社試験も受けられませんでした。
マスコミ志望だった私は、色をほとんど使わない「新聞社」を目指すことにし、新聞について勉強を始めました。それが、私の記者生活への始まりだったのです。

私が「色弱」と分かったのは、小学校の入学式後の健康診断・身体測定の場だったように、かすかに記憶しています。
体重計や身長、虫歯の有無など測り調べる列の中に、色盲・色弱検査もありました。緑、青、赤、黄などの大小さまざまな丸い点がページいっぱいに散りばめられ、医師だったか、看護師だったかが、「何に見えますか?」と私に問いかけました。
私は「5」とか、なんとか数字で答えたと思います。
「じゃあ、これは?」
次々に私は答えていきます。ほかの子とは違う答えで。それで、私は「色弱」だということが判明したのです。
付き添っていた母は驚いたようでした。
「大変なことだ。自分の産んだ子が『色弱』だなんて…」
慌てたそのときの母の表情を今でもおぼろげに覚えています。

祖父が同居する古い日本の体質が残っている家でした。
跡取りが「色弱」! 祖父は「わが家にはそんな者はいない」と母を責めたようです。
母は実家の血縁者に「色弱」がいないか調べたようです。結果は、母方にもいない、ということだったように、かすかに記憶しています。6、7歳の私がこんなことまで覚えているほど、わが家は大騒動したのでしょう。

前に書いたように、周囲の色にかすかな点の色が溶け込んで見えなくなるぐらいなので、日常生活にはまったく支障もなく、近所の子たちと遊んでばかりの小学時代を過ごしました。
でも、毎年1回、あの入学式のときに体験した不安で嫌な感情を呼び起こすときがくるのです。
進級のたびに行われる身体測定です。
「色盲・色弱」の検査の列にくると、心がふさがりました。同級生が次々と「はい、いいよ」とパスしていく中、私とSくんがいつも残されて、詳しく検査を受けていました。Sくんも色弱でした。
無駄な努力ですが、列の直前に並んだ「正常な」目の子の答えを覚えて回答しようとしたこともありました。でも、検査のページは多く、全部を覚えることなどできるわけがありません。
年1回、自分とSくんは「ほかの子と違う」という、なにか異端を宣告されたような気分を味わうのです。小学校6年まで、そんな思いが続いた記憶があります。
その日のことは帰宅しても母には話しませんでした。子供ながら「色弱」のことを母に話すことはいけない、と分かっていました。

両親は、私が小学校低学年のころ、「世界文学全集」を買ってくれました。
それ以降も、とにかく本に不自由はしたことがないほど、買ってもらいました。歴史ものが好きで、日本史だけは大学受験レベルの知識が小学高学年のころに頭の中に入っていました。
一方、数学は苦手でした。中学生の因数分解でつまづいて、数学嫌いが決定的となりました。なにせ因数分解をしなければならない理由が、私には見つからなかったのです。「こんなことをする意味を教えてほしい」と思っていました。

中途半端な進学校に進み、高校2年で私立文系大学コースで行こう、と自分で勝手に決めました。まだ国立1期、2期校があった時代です。鹿児島は伝統的に「官」が上、「民」は下、と思いこむ県民性があります。「大学も国立!」というわけで、私のように受験科目が3教科しかない、数学が受験科目にないという理由で、高2の段階で私立大学を選ぶ者は「カス」扱いでした。
私は、高校生向けの雑誌で読んだ「日本のカルチェラタン、神田」という言葉に憧れを抱いていました。カルチェラタンはフランスの学生街。当時の東京・神田には日大、明治大、中央大、法政大、専修大など多くの伝統校が、まだ校舎を残していました。しかも、周辺には本屋街です。

私には、「国立大に行け」と叫ぶ教師たちが、鹿児島しか知らぬ「井の中の蛙」鹿児島人の象徴に見えました。心の中で教師を「どうせお前は鹿大(鹿児島大)卒だろう。へっ、田舎しかしらないくせに」と馬鹿にしていました(鹿大OBの方、失礼)。思えば、大変に傲慢な生徒でした。

何校か受験し、神田育ちの大学のひとつにやっと入学しました。ただ、私の学部は神奈川県川崎市に校舎があり、神田までは小田急線と千代田線を使って1時間弱かかりましたが…。
旅とカメラ、友人との語らいの3年を過ごし、就職活動の時期を迎え、ゼミのほかに「マスコミ研究会」にも顔を出し始めるようになりました。
大学の就職課で見たのが、冒頭の「色盲・色弱不可」と記入された求人票でした。
小学校の記憶がよみがえりました。

大学4年の夏休みに帰省したある日、昼食のとき母と2人きりになりました。
就職の話になり、突然母が「あなたが色弱だったから文系に進ませようと、子供のころから本をたくさん与えた」と言い出しました。そして「就職でも困っているでしょう」と思いつめたように泣き出しました。母はずっと私を色弱の子に産んだことで自分を責めていたのでしょう。
「そんなことはない。色弱でも働ける会社はある。なにより元気に産んでくれた。ありがとう」と言って、私もオイオイと泣きました。

母と色弱のことで話したのは、そのときが最後です。

母ががんで入院したころ、少し早めに帰宅できるときは病院に寄って見舞いました。が、もう色弱のことなど言葉の端にも出ませんでした。ま、それ以上に私が、親の意に反した人生を送って、心配をかけてしまったせいもあるでしょう。
次第に、抗がん剤の副作用でやつれ、激しい痛みに耐える時間が長くなってきた母とは、じっくり昔の話をするゆとりもなくなりました。
そしてモルヒネ。寝ているか覚めているか分からない母を見舞いに行っても、枕もとで腰かけているしかありませんでした。

亡くなって7年。母に「色弱のことはそんなに気にしなくて良かったよ」とだけ、もう一度言っておきたかった、と今思います。
by gayacoffee | 2008-07-12 23:03 | ガヤマスのつぶやき | Comments(0)

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