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「愛国心」…ある元特攻隊員が出撃時に思ったこと

「愛国心」をすぐに持ち出す人がいます。
この言葉を聞くたびに、「それを持ち出したら論議が進まなくなるよ」と思ってしまいます。寅さん流なら「それを言っちゃあ~おしまいよ」です。

もとより、自分の生まれ育った国、故郷を愛さない人はごく少ないでしょう。私にもふるさとを愛する気持ちはあります。
その愛する「国」が、ある人にとっては親や妻子、恋人とイコールである人もいるでしょう。または、目を閉じてまぶたに浮かぶふるさとの山々だったり海だったりするかもしれません。
「国家」である、という人もいるかもしれません。

ただ、今回の田母神氏更迭問題にしろ、日の丸や君が代、靖国への論議で、誰かが「きみは国を愛さないのか。愛国心はないのか」と言ったとします。すると、たぶん思考停止、となるでしょう。だって、論議の争点を超越した次元の、そして誰もが有無を言えない言葉を喉元に突き付けられるわけです。言われた方は、口を閉じるしかなくなります。
例えがいいのか分かりませんが、鹿児島では、かつて男子は「オナゴンケッサレ」「クソヒッカブイ」=卑怯者と言われた途端、議論を止め、意思に反した行動も取らざるを得なかったのです。
「愛国心」はそれと、いやそれ以上の、思考停止力のある言葉です。脅しの言葉にもなります。
ですから、私は「愛国心」を常々持ち出す人を信用しないことにしています。

ただし、先の戦争を体験された方の口から出る「愛国心」には厳粛な思いがします。

以前私は、旧海軍の戦闘機パイロットで、昭和20年4月6日、特攻隊の一員として国分第一基地から沖縄に向け飛び立った人の話を聞きました。
長文ですが、お付き合いください。

この方は、昭和18年10月、ラバウル上空で初陣を飾り、以来、トラック島、サイパン、フィリピンなど死線をくぐった歴戦のパイロットです。
「特攻は究極の死刑宣告だった」と言います。
250kgも500kgもする重たい爆弾を積んだ、故障ばかりする飛行機に片道だけの燃料を入れ、アメリカの艦隊のいるフィリピン、その後は沖縄を目指し飛んでいきますが、すでにレーダー網を開発していたアメリカ軍は、日本軍の機影をキャッチしたら、すぐに迎え撃つため出撃、「ピケットライン」と呼ばれる迎撃態勢を取って待ち伏せし、特攻機の多くが目標(アメリカ艦隊)に行きつかないうちに撃墜されたそうです。
この方は、長い空戦の経験から、アメリカ軍の優秀さ、設備・装備の充実を知っていました。
学徒出陣で短期間の飛行訓練で特攻隊員となった若者に、「ピケットライン」の事実を伝えても、実戦の経験のない兵士には理解できなかった、と語ります。
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特攻隊は「志願」というかたちを取っていますが、実際は上官に呼び出され名前を書き出される「強要」でした。その方から聞いた話をまとめた「零戦にかけた男」(右写真。南日本リビング新聞社刊、問い合わせ099・222・7288)から一部引用します。

「翌日からレイテ東方西方海域の攻撃。1機、また1機と未帰還。遊激戦で散っていった。
今日も一日生き延びた、と宿舎に帰ったとき、隊長から「ちょっと来てくれんかな」と言われたら特攻の申し渡しである。それから3日後には、早朝か夕方、特攻機に乗って消えてゆくのだ。
次はわが身。みな哀愁を帯びた顔をしていた。一縷の生還の希望もない、究極の死の宣告である。」


この方は「考案者が自ら率先して、後に続けというならまだしも、下級兵士だけ行けでは腹が立って仕方がなかった。志願者だけとしていたが、当時のこと、行きたくないとは言えない。完全な命令であった」と言います。

昭和20年3月25日。教官、教員総員が集められました。
「敵は沖縄周辺での活動から、沖縄に上陸の算はきわめて大である。本土の一角に敵が上陸するのを全力で阻止しなければならない。隊からも特攻隊を出撃させる。編成は隊長に一任してほしい」との訓話。
そして翌日、この方の名前もありました。編成は14機。
この方は、「たとえわずかでも生還の可能性があれば意欲もわくが、特攻は死刑の執行にも等しい」と、なかなか命令を自分の中で受け入れられなかったと素直におっしゃいました。
「出撃して生還して帰れば、戦果を挙げられるのに」
歴戦のパイロットとして悔しかったそうです。
編成を見ると、実戦経験のある操縦員は3人、偵察員は2人。あとは初陣です。敵戦闘機の曳光弾も艦船からの弾幕も知らない若者たちです。

4月5日、百里ケ原航空隊2000人の見送りの中、雷撃機・艦爆14機は、沖縄への最前線・鹿児島の国分第一基地へ向かいました。
そして6日。出撃の日です。
朝、前日に連絡をしていた兄が、鹿児島県喜入の実家から一晩かけて自転車で駆け付けてきてくれました。母手作りの三月節句の団子を持ってきましたが、その方は食べず、ほかの隊員に渡すと「母の味がする」と喜んで口にしてくれました。
兄に「午後2時に出撃するから、5時には火の粉になっている」とそっと伝えました。
宿舎から基地に向かうトラックに乗車、兄がずっと手を振ってくれました。
国分第一基地へ到着。現在の陸上自衛隊国分基地のあたりです。
攻撃隊が整列。宇垣長官(中将)から訓示。宇垣長官は隊員の手を一人ひとり握りながら涙を流し「祖国のために死んでくれ」と言いました。
「質問はないか」との言葉に、尊敬する上官でともに出撃するK兵曹長が「私はこれだけ搭載した爆弾で、敵の輸送船を2隻ぐらい沈める自信があります。それだけ沈めたら帰ってきていいですか」と問います。
宇垣長官の答えは「死んでくれ」の一言だったそうです。

1中隊、1番機の出撃は午後1時半。
各自解散。それぞれの特攻機に向かいます。この方が搭乗したのは2人乗りの九九式艦上爆撃機。旧式です。
1番機エンジン始動。この方が搭乗する機に近づくと、整備係の下士官が燃料タンクのふたを開けて見せました。
満タンでした。特攻機は「帰り」の燃料を積まないのが内規です。
整備係の下士官「私はどんなに偉い人が指令を出しても、男として、片道燃料を積むわけにはいきません。満タンにしてありますから、途中で(機の)調子が悪くなったら帰ってきてください」
握手して最敬礼をしました。
座席の下で、整備員がなにかしています。工場からの出荷時に機銃取り付け横のジュラルミンが切ってない、とのこと。自機の機銃掃射はできないことになります。しかし出撃まで時間がありません。
「死にたくない」。そんな思いが頭をよぎりました。
しかし、命令です。さまざまな思い出、この青い山々、きれいな川を守り救うには死ぬしかないのだ、とあきらめました。

午後2時出撃。250kg爆弾に、60kg爆弾を4発加え、500kg弱の重さを抱えて、飛行機を滑走させました。桜島が前方左手に見えます。
爆弾の重さのせいでなかなか飛行機が上昇せず、海面すれすれを飛びながらじっくりと上っていきました。
沖縄まで通常約2時間。この重量では30分は余計にかかるだろう、と予測しました。
途中、薩摩半島中ほど、錦江湾沿いの喜入の町の上空に差し掛かりました。
故郷です。
飛行機の高度はふるさとの裏手にある「千貫平」600mと同じです。
下に青年学校、海岸、小学校が見えます。この方は、「元気にさよなら」を書いた鉢巻きを、上空から落としました。

この方の乗った飛行機は、屋久島沖で待ち伏せしていた敵戦闘機3機に追われ、自機が機銃を発射できないため敵機の銃弾が底をつくまで逃げ回ったそうです。偵察員は敵の銃弾が当たり重傷です。敵機のうち熟練パイロットと思われる機が翼を振って、離れていきました。敵ながらあっぱれとの合図でした。ほっとしたのも束の間、エンジンがオイル漏れを起こし、やむなく帰還することにしました。燃料がなくなった午後7時過ぎに薩摩半島の陸軍の特攻基地近く、知覧の畑に不時着し、その際に重傷を負います。
退院し再出撃を待つうちに8月15日の「終戦」を迎え、現在も存命でいらっしゃいます。
足腰が丈夫だった数年前までは、出撃した4月6日になると毎年「千貫平」に登っていたそうです。

私が話を聞いたとき、たびたび口にされた言葉があります。
「特攻隊を美化してはいけない」
「特攻は、大切な人命をモノとしてしか扱わない最低の行為だ」

そして「愛国心」についてもこう語っておられます。
「戦争では、愛国心、愛国心と言って若い兵士を死なせた奴らが一番先に逃げた。そんな言葉は信じない」
「しかし、私は国を恨んだことはない。この国に生まれ育って本当に良かった。感謝している。国を愛するということは、子を愛し、妻を愛し、親を愛し、ふるさとを愛することだ」
by gayacoffee | 2008-11-13 15:06 | ガヤマスのつぶやき | Comments(0)

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